慢学インドネシア {処かわれば品かわる}
 
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15 大ジャカルタ 1997年

 1527年6月22日、ファタヒラ・イスラム軍がスンダクラパのポルトガルを撃破し、勝利の町ジャヤカルタとしたのが街の名の起こりとゆう。
 オランダが西ジャワ・バンテン王国に甘言で干渉しだした十七世紀はじめに、この鰐や毒蛇の住むチリウン川河口ゼロ米の猖獗の湿地スンダクラパに砦を築き収奪の拠点として、バタヴィアと呼ばせたのが始まりである。いまでも土地っ子はブタウイとゆう。

平戸を追放されたジャガタラお春がシモンシモンセンと暮らした頃は、カナルをめぐらしたバタヴィアは、オランダVOC(東インド会社)植民拠点として現在の大統領官邸(旧総督府)まで南北5キロにおさまるコタ(町)だった。
1886年タンジュンプリオクが開港し列島産物の集積、外領人とりわけ華人が増え世界に知られる植民都市になってゆく。
東西はラワ(湿地)で人が住めるような場所ではなく、町は南にしか広げられなかったから、ついこの間までジャカルタはコタのほかは南北方向にしか車道はなく、十字路の極端に少ない変則さだった。 郊外唯一のゴルフ場のあるラワマングンからジャテイネガラ(カピタンコウネリアス)だけが隣町だった。
いま優雅だったであろう跳ね橋の架かるアンケの掘割りは既に黒いヘドロの汚臭を放ち、世の移り変りを浮き上がらせる。

 90年代に入って、それまで掛け声だけで眠っていたようなDKI(Daerah Kusus Ibukota Jakarta 母なるジャカルタ特別市)が眠りから覚めた。
七年程の間の膨張爆発で昔日の面影はなく、地図とてももう全市をカバ−出来ず役に立たないばかりか、明らかにこの街で生きている新しい人種、考え方、きわめて大きい変化の坩堝と化したようだ。DKIは共和国にない街だからダエラ・クスス(特別地域)なのか。
柔らかい夕暮の風にのって遠く近く流れるマグリブの祈りの唱和、篭を背にヒタヒタと足音もなく露地裏に消える地薬売りの少女の姿も消えて、コケ脅かしに見える林立するビルが太陽光を反射し、スモッグとバイクの派手な騒音、銭がすべての巨大な田舎町に変わってゆく。今まで動産投資しかしなかった華人が不動産に進出したからだろう。
強烈な紫外線の下のどんよりとした赤道無風帯のなかでは、汚れた大気も雑音も閉じ込められて、逃げ場もなく居座っている感じがする。
人もそうでないことを祈る。

 独立を勝ち取ってオランダ企業の接収、日本の戦時賠償でモナス独立記念塔(Monument Nasional)や外国人も泊まれるホテルインドネシア、サリナデパ−ト(スカルノの乳母の名)や主なロ−タリイに栄光の巨大像が睨みを利かすようになって、初代大統領スカルノが共和国の威信にかけて開催した第4回アジア大会で、街はスナヤン競技場(10万2千人収容1962年ソ連援助)に続く南のクバヨランバルまで伸びた。
繁華街グロドックやパサルバル−、チキニは、それまで馬車が鈴を鳴らして辿った新興地ブロックMにおびやかされるのは、ちょうど浅草や上野界隈の下町が新宿渋谷に移っていったのと同じ現象だ。
それでも街は長い間10キロ南北に縦長の緑の海に浮かぶ赤い屋根、倦怠で猥雑な植民都市はそれなりに風情のある好ましい佇まいだった。
コタには辣腕商人華人が巣食い、街路樹の茂るタムリン・スデイルマン通りが貫通するよそ行き顔の大通りの裏には、巨大なバナナの葉が揺れる庶民のカンポン(密集地)が果てしなく広がっていた。
アジア・アフリカ非同盟をうたい東西陣営の狭間を泳ぎ、国軍と共産党、イスラム勢力の均衡ナサコムも、いかなスカルノの弁舌でも限界がある。インフレは600倍に、物資は欠乏し美人カレンダーの土産に歓喜する街の姿だった。

1965年9月30日、奇妙な内乱が起こった。
一夜にして革命と反革命が同時進行して、世の中は主義主張から超現実的でしかも忘れていた銭金の時代に一変した。
ジェノサイトの嵐が納まった後に、二階級特進したスハルト大将が疲弊した社会をドルと円の手助けで建直しを計る。なり振り構わない援助と借款にも、諸外国は巨大資源を有する列島に利権を求め、外国投資が解禁されるとこれに殺到した。
海軍中将サデイキンが知事になる(1966-77)と硬軟両刃の剣を抜いて、押し寄せる不法居住者の強制退去打ち壊し「首都封鎖宣言」、文化センター(イスマイル・マルズキ公園)保健所学校増設の財源を競馬場、ドックレース、ハイアライ、憩いの場(アンチョール)を建設、母なる祖国の切り売りと云われようとイスラム教義に反しようと、チュコン(華人政商)がのさばろうとも、開発の父は三十数年ただ一筋に経済発展に邁進する。
遺跡ひとつない平らなこの街に、大統領夫人は上納金か国費でか三千万ドルの巨費で大国インドネシアを誇示するタマンミニ公園を開園(1978年)させた。

 それまで悪名高いクマヨラン空港、空軍ハリムと変わった空の玄関は、1985年、底無し沼のような泥濘地帯に10億ドルかけチェンカレン空港(ジャカルタインターナショナルエアポート・スカルノ・ハッタ・チェンカレン)が開港したのがすべての引き金となった。
この日を待って充分な幅員をとってあった環状道が、最初の高速道路として街を包むように結ばれ、それまで場当たり無計画と嘲笑していた外国人は、これから起こるであろう変革を「鳥が月を望む Burung merindukan Bulan」とも言っていられなくなった。
及び腰だった華人資金が不動産に投じられるように変わったのは、スハルト徳川時代が不変と読んだからだろう。

 いつの世にも批判勢力はある。リパブリックインドネシアはマタラム王朝(古いジャワ人封建王国)だと嘆くなら嘆け。この国は指導される民主主義の国なのだ。騎士たる国軍と鷲バッチの役人が、無知なる大衆を指導して大ヌサンタラ(インドネシア古名)建設、アセアンの盟主になり世界はアジアの時代。
タイ、マレーシアは只の露払い、東西の横綱は無限の資源と市場をもつ中国とインドネシアなのだ。現実に所得は向上しマクドナルドもケンタッキーもあるではないか。
スンダクラパはジャヤカルタにバタヴィアになりジャカルタになり、いまDKIは首都圏ジャボタベック(Jakarta-Bogor-Tangerang-Bekasiの頭文字をとり首都圏の造語とした)、マタラムの王都として世界第二(一位はニュ−ヨ−クかベイジンか)の都として君臨する勢いは止められない。

南のボゴールへのジャゴラウイハイウエイ、西へ延びるメラク高速道のタンゲラン、東のクラワン・チカンペックに集中して大工業団地が造成され、それらを繋ぐ外郭環状道路が思いの外早く完成を迎える今世紀の終わりを待たずに、巨大な田舎町は中心から両翼30キロの首都圏に変貌する。メインロードの高層ビルの殆どがこの五年に誕生し、そして陸続と立ち上がっている。
ビジネスは大国に相応しく、何よりも先ず受け付けカウンターに美人を配し、ベンツに乗らなければならない。
道路計画を先取りした資本は早い者勝ちのように、経済大国日本でも見られない巨大な豪華絢爛な造成地に投資する。昨今のブームは東京オリンピック開発の規模を大きく上回る勢いにみえる。
巧みな宣伝で千ルピアもしない荒れ地を大規模造成して、何々銀座と憧れの地名をつけて百倍もの地上げで売りまくる。何の命脈もない勝手な名前の町が昨日の沼地に誕生するから、一年も街を留守にすれば、もう何処がどこなのか見当もつかなくなる勢いを実感するだろう。

ジャカルタのあした
田舎では食えない人々が都に押し寄せるのは時代の流れだが、此処もその例に漏れず蟻が蜜に群がるような勢いで膨張が続く。隣はどなたが住むかいな。
ゴトンロヨン(相互扶助)、家族主義の美風は急速に失われ、消費経済の悪癖が蔓延ると嘆く貴方の先進国がその先例ではないのですか。
共和国経済の90%を移住華人に握られ、日本の六倍弱の国土の90%の富がこの街に集中すれば、この偏りをだれが何時修正するのだろう。
すぐ一千五百万から二千万都市になって、ルピアの価値も所得もこの街だけの基準で地方では通じない違う国になってしまう。
インドネシアは多様性での調和が国是だが、格差があり過ぎ、この国の持つ二面性、極端な二重構造がジャカルタに象徴されている。

アメリカとその尻馬の日本が、需要も少ないこの地に消費経済の蜜をぶち込んだ。
テレビは絶えず砂上楼閣の宣伝を流し、住民は憧れる暮らしと現実の区別さえつかないまま夢の暮らしを追い求めるから、収支適わず汚職と腐敗が巷を支配する事になる。
かつての中心地の密集地は強烈な地上げで大ホテルや駐車場に変わり、緑いっぱいと宣伝される郊外団地の庶民は、相変わらずドアもないバスにスシ詰めになって二時間もかけて通勤する。第三セクターか私企業資金で造る高速道路は早い償還を目論むから料金に跳ね返り安車に乗る人は走れない。鼠道しかないアクセスに車の列が並ぶ。
五年前には数える程しかなかったゴルフリンクが造成地周辺に五十箇所も、なんとかモールと称するショッピングセンターが林立し、本物か偽物ブランドを並べる。所得平均700ドルの住民の誰がプレ−し買い物するのだろう。
ちょっとやり過ぎではないですか。
エレベーターに乗る必要のある男達は、おしなべて北国仕様のネクタイを結び優雅なバテイック(サラサ染め)シャツなど田舎っぺに転落したのはこの僅か三年のことだ。
誰もがハンドホーンに憧れて利便よりステイタスになると、ある日突然使ってもいない数百万ルピアの請求書が来るのはまだマタラムの時代だからか。
これらの全部とは言わないまでも(言えば恐ろしい制服に国家転覆罪で逮捕されよう)殆どがスハルトファミリイの馬鹿息子バンバン、トミイ、いや娘だけでなく年端もいかない孫までが社長様なのだ。

 都市計画は多分外人チ−ムが彼等の夢をかけたように整然と、しかし無責任な理想で進行しているようだ。それを特命を受けた華人資本が形にするから日本宅地造成など足元にも及ばない規模だが、儲けのない上下水道などに投資する企業はない。
 旧市街に細々と引かれた水道管もオランダ時代の代物で、導水量より漏水の方が圧倒的に多い。住宅は相変わらず井戸ポンプの善し悪しが重大事だし、下水はビニールの芥でつかえて溢れ、廃液や環境汚染は想像以上だとゆうし、旧市街の地盤沈下は深刻で洪水はあっても、生活水は買うのが常識になってしまった。
火事があっても放水栓は数キロも先で出ればめっけもの。消えるまで待とう。
鉄道線路もあるにはあるが、保守劣勢、道徳欠如でとても通勤ダイアなど維持できない。
よそ行き道路以外の裏道路は歩道も車道もない農道で普通バスは入れない。腰をかがめて乗る小型トラック改造車が警笛と排気を撒き散らし数珠つなぎで行き過ぎ、発展の象徴であるハイヒールの美人が降り立つ糞も味噌もいっしょの暮らしが普通の市民生活なのだ。
チャンポンとはここの言葉でまぜこぜ文化、国是多様性の調和も極まれりといった状態だ。
「だが、此処にはカルカッタやメキシコシテイ、マニラのトンド地区スモーキイマウンテンのスラムはないではないか」
「街全部がスラムだからねえ」

 バスに乗り遅れた人達、消費出来ない人はもはや人間ではないのかもしれない。この街はきっと庶民の憩える公園が世界で最も小さい巨大な田舎になって、二層の最上部の限られた人が金網で囲まれたVIP芝生で優雅な生活をエンジョイするとしか思えないように感じるのだが、ここはジャカルタでマタラム王国ではない。
ネクタイを締める人達、ハイヒールを履く人達が出現して、「籠に乗る人担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」の喩えのように、沸かした水がジュースに、バテイックが色鮮やかな化繊のスカートになれば金は回り、金は少しずつでも山を超えてジャワに浸透してゆくだろうか。
消費税所得税法人税の税収は増加して、いままでのような外の手段でなくても役人給料が払えるようになるし、もしかしたら下水も整備出来るかもしれない。その証拠に経済成長は7%を維持し、悲願の脱石油経済はとうの昔に脱却したし、インドネシア国産車も海外から韓国製国産車が大量に荷揚げされる。
しかし、高利貸しと同じようなルピア金利、いい加減な担保物件評価、ただ外国追従の為だけの株式市場(そんな企業が此処にあるのか)、個人資本の全国規模銀行、表にあらわれない闇所得、実勢の伴わないバブル景気が果たして持つのか。
全館冷房コンドミニアムに入居した邦人がこぼした。
「一軒家を借りるより便利と考えたが、住んでいるのは数世帯で残りは華人投機の空き家、いつ空調を止められるかビクビクしてるし、幽霊屋敷みたいで物騒だよ」
共和国全体がそうでなければいいのだが。

だれもが国土の切り売りと怒らず、イスラムの原点に帰れと理想を振り回さず、指導され、二重構造の右側に住めるのを切望し、車とハンドホーンが買えれば、大ジャカルタの膨張はとりもなおさず共和国の発展に繋がる、か。

 
 
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