慢学インドネシア {処かわれば品かわる}
 
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19 甘えの構造

子供が親に物をねだったりするのを'甘え'とゆう。
大人になれば、たとえ欲しくても男なら堪えて'武士は喰わねど高楊子'がよしとされた。女性は甘えが許される。可愛く、か弱く、生まれながらに特殊技術を体得しているから。此処の男達は、この男の風下にもおけない心根、 MANJA(甘え)女性社会ともいえる性情がある。髭を蓄え、もっともらしい男でだ。
知り合いの間柄での挨拶に'Jangan lupa oleh-oleh yah 'と云う慣用語がある。
「お土産げね」の意味だ。歌にもある。
私が何処かにゆくのを知れば必ずオレオレになる。例外はない。
それが慣用語までになるのは、甘えの構造があるからだ。

甘えには、「そうして呉れるのが、当然」と云った人におもねる気持ち、卑屈な気持ちがある。とにかく、甘ったれ根性で’そうしてやらないと’僻み、逆恨みとなってゆくから始末に負えない。
彼にはああしてやって私にはして呉れないとか、前はこうだったが今はないとか。
毅然としたところなど皆無に近い。「いまに見ていろ俺だって」 痩せ我慢の根性がない。明日の百より今五十、人からものを貰うのに何の抵抗も感じていない。そしてまだある。恩に感じると云う事がない。
当然なのだ。余禄があれば神に感謝するだけだ。
責任をとらず、あらゆる理由を述べ立てて言い逃れをするのも、この甘えの構造ではないか。
よくやったと褒美をやれば、翌日さっさと辞めてしまったり、こちらの期待と思惑は必ず外れる。裏切られると言ってもいい。
私がガイジン(金持ち不可蝕人種)だからか。対等でない人間関係(被植民)が長く続いたからか。貧富の差のある社会構造かせいか、宗教か、いや民族性だと思う。毎日が暑いとそれどころではなくなるのか。
男には処世の美学が大切だ。要するにシニックな孤高とでもいうのか。
私が此処はオカマ社会だと言ったら、「オカマももっと男らしい」。

そんな日々が続いて何年かたつと、それまで軽蔑していたオランダ式経営法、支那人のやり方をとるようになる。世界一家、すべて兄弟の題目を忘れる。
彼等に何の期待も夢も抱かない。相対の関係で、成るべく会話を交わさず、関係を希薄にして、必要事項だけがっちりと指示するように変わる。最初から期待していないから、結果が悪くても落胆しない。
あまりにも多くの失望が重なり、人を替えてもまた同じような結果になる。
案外に石頭で、理解力に乏しくすぐ元に戻る。改革や改良を好まない。
それを注意すれば、マンジャかアラサン(口実)だ。 
ある一定の距離を保って、俺はガイジンだと自分に言い聞かす。決して深い付き合いはしない。さらりと逃げる算段を考えておく。それが処世だ。憎きオランダの手法だ。
甘えられるのが好きな人は、尻の毛を抜かれるまで付き合えばいい。
’おんぶと言えばだっこ’気持ち良く面倒みた積もりが、収拾のつかない結果を招いてしまった友人もいた。
アジアはひとつ、同じ人間同士、手を繋いで共に向上しようと誓った俺だ。情けなくて涙もでない。
「どうせ(あの人は)いずれ(故国に)帰る人だから」が根底にあるのか、俺の付き合った人がみんなそうだっただけなのか。利害関係が無ければ、何処の人でも皆ないい人だ。大企業の人に限って、こんな言葉を聞くや、憮然として偏見だとおっしゃる。
関係が希薄だからだ。此処に長い紳士は(それを認めるから)話題を変えようとする。
'インドネシアのこころ'アリフィンベイ著 奥元源造編訳
日本語でインドネシアの解説をした好著で、その中にボノカルシディポヨノの論文として、人口の七割を占めるジャワ人の生活哲学を列記してある。
Narimo(受け入れ) Sabar(忍耐)Waspada (警戒) Eling(判断)Totokromo (礼儀) Kprajan(威厳)Andap Asor(簡素)Prasojo (謙遜)の八条だ。これに Manja(甘え)Amok(激情)が加わるのが私の査定だ。 これを日常生活に当てはめると、
「良いも悪いもとにかく受け入れる。約束も後でどうにでも言い訳(Alasan) はある。運が私に向いていないから、当たり障りのないよう、ここは我慢しよう。人の言葉は嘘ばっかり、信じるな。表裏を使いこなそう。 私は見栄っぱりじゃあないが人とは違う、格好つけて舐められないように大人ぶるのも必要だから鷹揚に構えて、よきに計らえで行こう。
あんまり威張って自分を曝すのはやばいし、ほんとは懐ろが寂しいから、金は使わず先頭切るのは止そう」
彼等同士でも同じだ。身内、村以外は絶対に信じない。内の人間と外の人間をはっきり区別していて、対人にはデポヨノのルールで対応する。
(結果的に)騙しても騙されても、当事者の間に神が介在するから、神も許し給う、神の御心でなかったとする。
神は、己れを守り慈しんで呉れる存在より遥かに偉大で、運命を委ねている存在なのが、神仏祈祷の私等の考えと大いに異なる。
それは一歩間違うと向上心欠落につながる。いくら努力しても、たかが人間で運命は神の掌の中にある。ナリモでサバールだ。
そうならない為に、交際にはいつもワスパダで、的確なエリンが必要だから決まるものも決まらない、唯時間だけが過ぎて行く。
逆に依頼事もあまり催促しない。約束も単なる気休めで、待って実現しなければ諦める。
現実がそうだから。アルラーの御意志でなかったのだ。
トトクロモは廻りくどい、とってまわした言い方で、相手の感情を傷つけるのを極端に嫌うから(マンジャの要素もある)要点がぼけて、いったい何を言っているのか解らない。
不可能とか出来ないとは決して言わない。その内にとか明日には、と言うが、此処の時制は流動していて、昨日は今に続く過去、明日は今に続く将来を意味しているのが解るのは、石の上にも三年たってからだ。
逆にすぐ意気に感じて感激し、かっとなって我を忘れ、下品に喚き、明日になればけろりと忘れている俺は、まるで子供だ。
気にいらない事が起こって日本流に烈火の如く怒ると、彼等は眼をぱちくりさせて、怒られた事より俺のその態度に驚く。
信じられない顔をする。そして白けて、瞳にちらり軽蔑が浮かぶ。
怒鳴るのは気狂いだけだから日本でのような効果はまったく期待出来ない。そして皆なが心配する。裏にまわって陰険極まりない報復を画策するからだ。
だから、もっと女性的に諭し立場を聞く度量が大切で、どうにもならなければ、まったく違う理由で相手を傷つけず別れる道を考える。どんな誇りか知らないが、クプラジャン(威厳)を傷つけてはいけない。

しかし逆に先方が考える日本人像は、怖い狂暴な人種(白人より)との認識が結構強い。嘗ての日本軍の横暴を忘れてはいない。嵐のように突然と権力集団で介入した過去は、いくらその正当さを論証しようと、異常な時間だった事は拭えない。
理解される時間もない短期間だったのも原因で、嘗ての日本軍の横暴を忘れてはいない。人前で抵抗出来ない人の横面を殴るなど人間の行為ではない。それだけで人間失格で、それは大日本帝国陸軍の専売だった。毎日歯を磨くのと同じように。
彼等の資質でその悪業をただ赦しているに過ぎない。
しかし男達は耐えて我慢し祭りもなく禁欲生活が続くと、コップに水が溢れるように突然と狂気に突走ることがある。それが英語にもなった Amok だ。
アモックは激情とか、理由も解らず狂気が集団化する事を謂う。
暴動と似ているが、それをやっている本人達がその理由を知らないのが暴動とは異なる。
なんでそうなるのかはまだ解らない。たぶん気温のせいかもしれない。
この国では二十年毎にアモックがあると謂い、1965年の共産クーデター(半年で理由もなく、四十万人かもっとが河を血で染めた)の二十年後に密かにそんな噂が出たが事無きを得た。気候不順に影響されたのか。
街角でも付和雷同する時がある。物見高いのか群集心理か暇なのか、そうなると、もう自分が自分でなくなるから非常に危険だ。
俺は自分を竹を割ったように一本気の男の中の男と思っているが、それは北の島国での美徳で、彼等には下品で狂暴、自分勝手な危険な性質と思われているのかもしれない。
深く反省して、古都の佇まいのような文化を身につけよう。ものを言う時は拾勘定してから、小さい声で喋るようにしよう。そうしないとアモックに八裂きにされてしまう。

 
 
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