慢学インドネシア {歴史は繰り返すか 歴史は教えられるか}
 
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5 スハルトからワヒドへ

Nov.1999
アジアの大国インドネシアは、この三年有余未曾有の政治経済社会混迷の三重苦に直面している。四半世紀に及ぶ独裁政権からの脱皮への陣痛といえば言えるだろうが、十月に独立以来半世紀、初めて合理的な選出による第四代大統領が誕生した。
新しい共和国の顔が決まったが現状は、まだ何ら解決されてはいないし未知数である。
今後の施政に期待して、一万数千の島々の大列島国家の二億人住民の公正で安寧な暮らしを祈るや切なるものがある。
「何が起こっても不思議ではない」インドネシア政局はいまだ予測は出来ない。
ワヒド氏選出も、最終段階までその帰趨は定まらずむしろ突発的な決着といえる。
総選挙で第一党を獲得した党首ではないし、最高議決機関である国民協議会(MPR)開催時点で、同氏は大統領候補として立候補もしていなかったからである。
内閣人事は決まったが国内の不安定要因は山積し、不測の事態が突発しないとは誰も保証出来ない。しかし長期独裁者スハルトからハビビに禅譲された政権が、批判勢力であるハジ・アブドウルラフマン・ワヒドに代わる画期的な決着を見たのは確かである。
2000年に向かってインドネシアはどの道を歩んでゆくのだろう。

長期独裁政権の破綻
32年の長きにわたった軍人スハルト政権は1998年5月破綻した。
理由は長年の独裁による鬱積した庶民感情、末期独裁者の常である不公平不平等、腐敗内紛、組織の老齢化による硬直沈滞である。それはさながら中世時代を彷彿とさせた。
直接的には1997年夏に発生した無節操なヘッジファンドの投機資金の流出による、タイの金融危機に発する為替暴落での経済破綻の処理の失敗によるが、それに至る前に、既に理解不能な布告や決定が続出していて、スハルトの健康も含め、彼の治世第七期総選挙での帰趨が囁かれていたが、案の定仕組まれた翼賛与党ゴルカル党の圧勝で、スハルトは大統領続投を宣言した。
恐慌の最中にも大統領の不可解な言動が、市場はもとより住民にいいしれぬ不安を醸し出し、流言飛語が乱れ飛び、ルピア貨暴落による銀行倒産、企業の操業不能失業者激増で、既に末期的症状なのは明らかであったが、この長期にわたる独裁政権をどのようにして終らせるかは、この国にとって非常に困難かつ未経験な試練だった。
独立以来かつて一度も公平な手段で政権が移動したことはなかったのだから。

スハルト政権の誕生
独立の父と呼ばれる初代大統領スカルノ(1901―1970)も経済を顧みない余りの政治傾倒で600倍にも及ぶ超インフレから民族党・イスラム党・共産党(NASAKOM)と国軍の均衡での国政も、当時の世界情勢から急速に左傾して北京・ハノイ・ジャカルタ枢軸に振れていった。
国内の窮乏を帝国主義打倒、民族主義による自立に置き換えざるを得なかったスカルノは、その弁舌とアジテート、カリスマ的存在で、言動は益々先鋭化し、イリアン解放、マラヤ連邦反対戦争、国連脱退と続き、折りから東側の圧力は、ヴェトナム戦争泥濘化のアメリカを極度に警戒させた。インドネシアが共産化する危惧が増大していったから。

1965年9・30事件はいまだに不可解な事件として真相は解明されていない。
大統領親衛隊長ウントウン中佐による6将軍殺害、革命政府樹立を一夜にして鎮圧して躍り出たのが無名少将スハルト陸軍戦略予備軍司令官だった。
決起軍は「アメリカCIAに指導された将軍評議会の反スカルノクーデターを阻止する」名目だったが、共産党と共謀したクーデターとされて、鎮圧後共産党(360万党員2千万大衆団体、資本主義国最大規模)の国家転覆陰謀として非合法化、徹底的に弾圧され、近来ジェノサイトとしては中規模の、60万人以上が粛清される恐怖が全土に荒れ狂った。
インドネシア共産党は壊滅し、多数の被疑者や不都合な者がブル島に流刑され帰らなかった。
庶民のこの恐怖はその後長く尾を引いて'もの言えば唇寒し'警察国家となってゆく。

秩序回復の全権の委任を受けたスハルトは、ヴェトナム反共ドミノ理論、ASEAN反共防波堤として西欧陣営に組み入れられ、植民帝国主義打倒、民族主義、アジア・アフリカ非同盟諸国連合の盟主インドネシアは、この事件をきっかけに一気に西欧寄りに変貌した。
スハルト少将は秩序回復措置(スプル・スマル)で実権を掌握、二階級特進して大将。
大統領代行から68年三月第二代インドネシア共和国大統領に就任し、以後七期も対抗者なしに政権を維持した。選挙で選ばれた民意による最高公僕ではなく、国父を自認した。
そのからくりはインドネシアの伝統であるゴトンロヨン(相互扶助)を悪用して、徹底した身内贔屓のご用集団を作ったことだ。
「Asal Bapak Senang貴方様さえ宜しければ」スハルトが唯一の専制権力となった。
翼賛与党ゴルカルで選挙、議会を統帥し、国軍(警察も含む四軍制)が睨みを利かせ、旧日本軍の情報組織隣組(Kelurahan)を採用して情報管理を行い、住民は郡長発行の身分証明書の携帯が義務ずけられた。これには個人の全ての情報が記録され、PKI(旧共産党員)印は消えることはなかった。異論者は突然行方不明になる徹底的な強権を敷いて、元ジャカルタ市長アリ・サデイキンなど反スハルト50人グループはじめ対抗者、敵対者は閑職に追われるか粛清された。
新秩序はパンチャシラ(建国五原則)を拡大解釈して、野党は二党に集約され、監視され機能しなくなった。パンチャシラを国民合意と決めて、1950年代新興独立国の諸問題−諸宗教、自由主義、政党制、言論、中央と地方、国軍の地位など−国論を二分した多くの問題は封印され棚上げされた。

大統領は国民協議会(MPR)1000人の代議員によって選出されるが;
国会議員500大統領任命500のうち大統領が国軍から指名75人 総選挙での選出議員425人だから民意の反映は1000分の425でしかない。
総選挙投票率は毎回70%以上で、その70%以上がゴルカルなのは異常としか言えない。
選挙運動もお仕着せで、選挙権もない少年達がお祭り気分で3党の党色の黄色、赤、緑に着替えて大通りを練り歩き、小銭を貰って引揚げる子供じみた馬鹿騒ぎで終始した。
選挙は単なる通過儀礼で主張も議論もなく、投票所は細分されて、銃剣の林を縫って投票した。
国会も五つのD'Datang来て、Duduk坐って、Dengar聞いて、Diam黙って、Duitお金貰って帰るだけ'でしかなくなる。
スカルノ時代20年は高圧的政治ではあったが、組合運動は比較的自由だったが一転した。
20団体程あった労組、農民、青年、医師会、ジャーナリスト協会などは一団体に限定された。
ジョーク:「歯の治療でシンガポールに行きます」「歯医者は此処にもあるのに?」
「インドネシアでは自由に口を開けられないから」
1994年有力週刊誌テンポほか3紙が発禁処分、編集長グナワン・モハマドは追放処分。
赤刈り旋風も復活して、国軍が全政党員の資格審査をやり直す。野党民主党(PDI)幹部がこれにより引退勧告、共産主義の亡霊を箪笥にしまい、必要な時引っ張り出して来るとジャカルタポスト紙と指摘したが。(1995)
街は英語刈りが通達され、センター、プラザ、タワーなどが禁止され英語DJも禁止された。
もちろん華人語は厳禁、華人学校は閉鎖され、中国とは国交断絶はスハルトが最初に実行した。

1995年8月インドネシアは盛大に独立50周年祝賀式典を行った。
飾りものの副大統領トリ・ストリスノを従えて、ハビビ科学技術相の開発した国産ターボジェット機N-250のテストフライトで開発政権を誇示した。スハルト治世の輝ける瞬間だった。
インドネシア共和国はジャワ・スハルト王国と変わらなくなった。
西欧諸国は反共さえ全うすれば、民主化人権には目をつむり、黙認した。
強権にしろ独裁にしろ、途上国が政治的に安定する事が強国の思惑なのは言を待たない。
資源と人口を有するインドネシアは計画通りに資本主義国の草刈り場として'開発'の名の下に1967年初頭外資導入法を発令、我先の投資合戦の火蓋が切られる。
1968年に国内投資法で華人資本の還流を、69年四月から開発5ヶ年計画を策定した。
経済実権は人口の僅か3%の華人が掌握しており、外資は彼等と協業するのが得策と考えるが、許認可や代表権はインドネシア国籍人に限定されているから、アリババ方式(アリはインドネシア人ババは華人)で、高級軍人政府高官はサインだけで実務は経済の九割を握る華人系資本と外国企業が行う図式は、当初から腐敗の温床が醸成されていた。
スハルトが中部ジャワ軍司令官だった頃の師団の集金係りリム(林紹良サリム)ボブ・ハサンなどが政商(チュコン)として台頭し、世界屈指の富豪にのし上がってゆく。

◆ スカルノ:弁舌さわやか、陽気な革命家で、スローガンを造る天才はナサコム(民族、宗教、共産)ガネフォ(新興国オリンピック)マリフィンド(マレーシア・フィリピン・インドネシア連合)などでいつも大衆の先頭を切った民族主義者。大の親日家であった。インドネシア独立は日本が達成させたといった声も聞かれるし、事実日本軍敗戦の二日後に暗黙の了解で独立宣言をしたのだが、アジア・アフリカ植民地ナショナリズムの波、宗主国オランダの疲弊で、早晩独力でも民族自決は就成されただろう。日本軍撤退後四年にも及ぶ独立戦争がそれを物語っている。
ビネカトンガルイカ(多様性での統一)、パンチャシラ、指導された民主主義などその多くがスハルト
に引き継がれた。超現実主義者で何の夢も理想もないスハルトでは当然だったろう。
ボンカルノ(スカルノ兄貴)常に大衆の面前にいたから、今もって独立の英雄の名は揺るぎ無い。
一方スハルトは陰性で演説下手、公式以外殆ど顔を見せない。議論を好まず陰湿に事を進めたからス
マイリングジェネラル(微笑み将軍)と言っても本心は分からず不気味で、国父、開発の父と呼ばせ
ても民衆は追従しなかった。喩えれば秀吉と家康といえよう。
スハルト: (1921ー )ジョクジャカルタ市西ゴデアン村中農出身。1940年職業軍人としてペタ(日
本義勇軍)独立戦に参戦。南スラウエシ反乱鎮圧。中部ジャワ・デイポネゴロ師団参謀長、西イリア
ン解放作戦司令官、63年陸軍戦略予備軍司令官に就任。

◆ 930事件: 封印された不可解な事件である。クーデター発生から数時間もたたず、戦略予備軍は首都を包囲する水際立った展開は、事前に察知しなければ物理的に不可能である。
司令官スハルトは何らかの形で情報を得ていたフシがあるといわれる。
米海軍機動部隊はジャワ南岸沖に集結していた。
アメリカはヴェトナム戦争での兵士のマラリアが急増して死活問題となっていたが、スカルノはココム(対共産圏輸出統制)をたてに、アメリカへのマラリア特効薬キニーネ供給を停止した。
鎮圧隊長スハルトは、5将軍の暗殺によって眼の上の瘤がいなくなり容易に権力者となった。
権力委譲にも強奪とか多くの説があるが、スカルノはボゴールに幽閉され失意のうちに世を去る。
スハルト失脚後、首謀者の一人で収監中のラテイフ元中佐は陰謀は、事前にスハルトに報告したと、スハルト自伝と食い違いを証言した。
大統領権限委譲3・11命令書は、スカルノが短銃の脅迫で署名させれたと、現認していた当時の護衛官スカルジョ・ウイラルジット氏は語った。

◆ ゴルカル(Golongan Karya職能グループ): スカルノが共和国の三大勢力の均衡の為公務員・協同組
合労働組合教員連合などの実務者集団で組織したのだが、スハルトはこれを政権維持の与党に利用し
た。公務員軍人を大幅に増員し、強制的にゴルカルに入党させ、国内最大唯一の完成された組織であ
る国軍が村々の末端まで淘侵監視した。

◆ パンチャシラ(建国五原則): 神への信仰 人道主義 インドネシア統一 民主主義 社会正義。
学者や研究者間には理論的に矛盾があるとゆうが、勿論、批判や議論は厳禁。

◆ 国軍: 陸軍50万 海軍5万 空軍2万3千 警察 20万。国軍が政治に関与する二重機構は国軍が植民地解放の長く苦しい戦いを勝ち抜いた誇り、列島の人材不足(貧困家庭の秀才は国軍に入るしか出世の道がない)で、民衆の誇りでもあった。
スハルト政権になり彼の出所である戦略予備軍(KOSTRAD)と特殊部隊が多くの予算を占めた。情報調整局(BAKIN)は大統領直属の諜報機関で絶大な権力を振るった。

新秩序オルデバルーはこうして独裁開発の父として君臨し、うわべは強権に拠った安定が図られ、資源と市場を求めた外資が殺到する。1967年インドネシア援助国会議IGGIでスハルト政権支援態勢が決定された。以後豊作も続く幸運で年6−7%の成長を達成し、一人当たりGPNは66年$70だったものが96年$1145と16倍の成長となった。6割の貧困層を11%まで減らした1997年、UNDP国連開発計画貧困追放功労賞。
しかし都市農村の所得格差、貧富の差は拡大して都市の肥大 地方の疲弊は進行してゆく。
この安定と成長は海外からは評価されたが、内実は庶民に930の恐怖心が、スハルト没落の瞬間まで秘められていた事と、外国企業と政府高官、政商華人の癒着による見せかけの都市部の限られた繁栄と国家財産の切り売りによるものであった。
格差はあらゆるところに現存して、スハルト王国の様相は日増しに増大していった。
スハルトは資産160億ドル世界第6位、国家元首でサウジ・ファハド、ブルネイ・ボルキアに次ぐ世界第3位。 香港最大華僑・李嘉誠の7千五百億円。(フォーブス調べ)の富豪になる。

◆ リム・スウ・リョン: 林紹良 スドノ・サリム(1916ー) 福建省生れ20歳でクドウスに移住し、落花生売りから身を起す。中部ジャワでスカルノの御用商人となり以後丁子輸入小麦製粉を独占、インドセメント、バンクセントラルアジア(BCA)を主軸に、200社以上を擁し食品製鉄自動車不動産等全産業を手中に。インドネシアでは鼻紙から家まで彼の息のかからない暮らしは出来なかった。
日本企業の大半が三顧の礼をとり合弁。金融恐慌で銀行倒産、サリムは米国にファミリイはシンガポ
ールに脱出。過去のインドネシア華僑の道を歩いた。
ボブ・ハサン: 1931年生れの華人孤児。独立戦の英雄Gスプロト将軍の養子になり、師団
参謀のスハルトが始めた'財団'を手伝い影武者として事業拡大。数百の伐採権を取得、森
林王として彼を通さない限り合板は入手出来なかった。七期政権で最初の華人系閣僚となる
が。

国父と家長
インドネシアには強い同族、家族意識が内在している。三百種族の言語も異なる多民族列島だから対外認識には出身地、眷族、同族意識が強くなるのは否めない。
権力を集中したスハルトは、徹底した一家主義を推進して大統領職を国父に置き換え、慈愛溢れる大家族インドネシアの父、トウットウリハンダヤニ(よちよち歩き子供達を危険から守って手を添える)を自認した。門閥閨閥は陸軍、ジャワ、ファミリイに片寄った。
イスタナ(大統領官邸)とチェンダナ(私邸)での対応は相違して、公私の区別は急速にチェンダナでの執務が決定権を持つ。予算は思し召し、下付の様相では逆らえない。
取り巻きは国軍であり役人であり、ゴルカルでなければ人ではなくなった。

地下資源国である故の外国からの膨大な援助金と借款は無節操に行われ、大国にもかかわらず消費経済の未成熟地に大量の外資が流入した。それらは全てスハルトの顔色で決まった。
傲慢な専制と腐敗は外国政府と企業が助長したともいえよう。
民営化の名の下に国有財産が食い物にされた。家族主義は変質して財団(YAYASAN)と呼ばれる裏資金調達機関が公私混同コネの政治はKKN(Korupsi、Kolusi、Nepotisme腐敗賄賂縁故)と囁かれ、目を覆うばかりになる。
1990年半ば、金利7%でドルを借り、ルピアに換えて定期預金にすれば15%で回せたから、海外借入額は1988年6千億ルピアから1993年には7兆8千億ルピアに、定期預金は9兆6千億が36兆8千億、96年には遂に96兆ルピアと急増した。
ドル建て資金を調達した銀行の多くは大蔵省任命で、政治家の圧力で採算度外視で融資を行い不良債権は先送りするだけだった。虚業はこうして全土に蔓延した。呆れたバブルである。

奢る平家久しからず
1996年数十年ぶりの旱魃でやっと米自給を達成したのも束の間の輸入国に転落する。
インドネシアは米さえ食えれば政治には関知しない風習があるが、キナ臭い騒乱が発生する。
熱帯雨林の大規模な森林火災、ビアクで大地震が発生、占い師や予言者が不吉な宣告をはじめると、四月偶然にも大統領に大きな影響力を持つテイエン夫人が突然死する。
イブ・テイエンは事業欲が強く、四十にも余る財団を牛耳り、陰の大統領と囁かれて隠然たる発言力を持っていた。 死因にも様々な憶測が飛んだ程唐突の死は、スハルトにはっきりした影響を与えた。75歳になる大統領の決断力に翳りがでた。
この時期になると、スハルトとその傀儡との年齢差が開き、変わらないのはスハルトだけで世代交代が進み、諫言するなど狂気の沙汰、国家機構は単なる取り替えパーツに過ぎなくなった。
ファミリイの出来の悪い子供達も成人して、その我侭と溺愛で、コントロール不能の横暴を振るうようになるが、父親スハルトは盲目的にプリブミ(土地人 純粋インドネシア人)の経済界進出の手本と褒め上げる。享楽を追う子供は軍人にもなれず、安易に事業家と錯覚する。
1980年代の国営民営化、規制緩和は彼等の利権獲得の様相で投資ライセンス、独占フランチャイズ、輸入権、外国企業代表権、丁子、プラステイック原料、テレビ放映権、移動電話、通信機器、石油化学、自動車、発電、高速道路管理権、森林伐採権、鉱山採掘権すべてに6人の子供が関与し、それに政商が暗躍する図式が完成した。
長男はスピード次男はエクスタシと薬物乱用も放置して。サハムコソン(空株)のれん出資800万ドルの売上会社に二億6500万ドルの融資をさせるなど常套で、長男シギット、次男バンバン、三男トミイはあらゆる利権に関係するが無能力で莫大な欠損を産む。
数ある馬鹿ばかしい噺のブサン金鉱事件は、国庫まで動員して挙げ句に詐欺に終り世界中の物笑いの種になった。ビールや学童靴にシールを貼らせる呆れる利権など枚挙にいとまないが、遂に国産自動車製造で兄弟の父親盗りが表面化する。
バンバンのビマンタラ・チャクラ(現代)トミイのテイモール(亜起)が韓国製を国産と偽って通常65%輸入税35%贅沢税の免除で販売する。トヨタ合弁のアストラモーターの株も買い占め国際問題に発展するがスハルトは子供可愛さだけに終始する。
特に日本企業は彼等に三顧の礼をとり、札で頬を張って合弁競争に明け暮れる。

5月プラボウオ・スピアント准将は、半年で二階級昇進する異例で少将で特殊部隊司令官に。
国軍司令官トリ・ストリスノを副大統領に担いだベニ・ムルダニ最後の抵抗後失脚、彼に代わって政治工作秘密作戦を担当する。プラボウオの前職は東チモール鎮圧作戦司令官だった。
彼はスハルトの娘婿であり、当然のこと義父と同じ国軍司令官から最高権力者への道が作られた。これで国軍すらスハルトの私兵と成り下がった。

◆ イブ・テイエン: スハルト夫人シテイ・ハルテイナ ソロの下級貴族郡長の出。三男三女を生む。
ジャカルタ郊外のタマン・インドネシアインダ遊園地建設頃から事業活動に没頭して利権に口出しし
てコミッションを要求しイブ10%と言われる。財団ハラパンキタ ダルマイスなど40以上を主宰、
企業に利益の2%を寄付させる。財務内容は闇に中。
クリスチャンだが政治的にイスラムに改宗したことになっている。
死亡原因は心不全といわれるが兄弟喧嘩(発砲)の仲裁で被弾したとまことしやかに噂された。
長男シギット-BCA銀行 次男バンバン−ビマンタラグループ 三男トミイ−フンプスグループ、 長
女トトウット−チトララムトロ、 次女シテイ−ダタムグループ、 三女−マンガラグループ 高校生
の孫までが会社社長になっていてその数は三百社を越える。
◆ 日本の円借款は1997年度は1952億円で全体の二割の最大供与国。JICA技術派遣も同国が最多。
戦時賠償も同国が最大で、当時から両国政財界の癒着が取り沙汰された。
大成建設が仲介手数料名目二億三千万円を工作費と認定されて追徴課税、大林組も二億円(99・4月)
は氷山の一角に過ぎない。
政府行政の全てが公然とコミッションを要求した。賄賂はインドネシア文化とさえいわれたそれに見
境いなく迎合した日本企業だった。不良体質は日本が作ったといわれる所以である。
インドネシア債権額では最大が東京三菱銀行4500億円、三和3千億円、他行も千−2千億円。
インドネシアはコスト・パフォーマンスの高い国といわれるのは、製品輸送 港湾設備などだけでな
く許認可に係わる経費(賄賂)が嵩む為でもある。

ジョージ・ソロスの投機、アジア金融市場壊滅
放漫腐敗経済が続くわけがない。ルピアのデノミネーション(平価切り下げ)も効果なくじわじわと対ドル相場を下げはじめる。バブルは基盤産業のないインドネシアでは修正できない。
首都にはビルが林立し、日本のデパートも進出し高級車が行き交い贅沢品が並ぶが、庶民は眺めるだけ、路肩には日銭稼ぎの輪タク屋、乞食の姿は消えなかった。
ジャカルタでの閉塞感、貧富格差増大、言論の自由を求めた大規模な騒乱が発生する。
政府内でも強引過ぎる、逆に反政府ムードが強まる懸念もあったが、過去弾圧で成功しているから政権に抗する勢力はすべて共産党残党で国家転覆罪で処理しようとした。

第七期開発政権を目論むお祭り総選挙を控えて1996年七月民主党党首に担がれたスカルノの長女メガワテイ・スカルノプートラを追放した。スハルトはどうしてもスカルノの大衆人気に勝てずその娘の人気に我慢ならなかったのだ。国内最大イスラム組織ナフダトールウラマ、ワヒド総裁が沈黙を破って'世情が暴力的になってきた。不正がまたり通り権力があまりに集中している'と非難した。ワヒドの毒舌も最大イスラム勢力の領主であり、さしものスハルトも無視せざるを得なかった
娘婿プラボウオが司令官を務め独立派首謀者シャナナ・グスマオを逮捕したと発表した矢先の1996年10月 唐突に非候補者だったホルタ氏 ベロ司教にノーベル平和賞が授与された。
選考にも時期的にも、なにか西欧諸国の作為がある雰囲気だった。

1997年5月総選挙
なりふり構わぬ黄色(御用政党ゴルカル)一色の総選挙は圧勝してスハルトは安泰、茶坊主ハルモコ・ゴルカル総裁は勝利宣言するが、大衆は彼の頭文字でHariHari Omong Kosong(毎日嘘ばっかり)と自嘲するしかなかったが、アジア経済は奢れるインドネシアを容赦はしなかった。
米国の機関投資家ジョージ・ソロスは超低利の円資金をドルに換え、それを担保にタイバーツを集めての投機売りがアジア通貨危機の発端となり、エルニーニョ現象による乾燥での森林火災の野火のように襲い掛かる。
インドネシア・ルピア不安説が流れ華僑のルピア売りが数百億ドルとなる。1997年7月対ドル相場Rp.2400が4000に暴落。公的債務677億ドル 民間債務656億ドル計
1333億ドル(タイ:925億、韓国:1506億)ルピアは鼻紙になりルピア債務は返済不能。
日本シンガポールなどそれぞれ50億ドルの協調介入も効果を表さず不気味な下落を続ける。
物価は高騰し生活必需品の食用油は姿を消し、遂に米も食えなくなる。街は不穏な空気が支配した。十月には6000ルピアを越え、米百十万d輸入を百万d追加したが焼け石に水。
十月IMFに支援を要請し、緊縮財政 金融政策維持 規制緩和を約束して180億ドル総計400億ドルの緊急援助を取り付け大統領令39号で不急プロジェクト中止をするが、この事は今までのファミリイビジネスに大きな打撃を与えるのは必然で、長女の発電事業など15案件が政府外のところで復活し、政策決定の崩壊、スハルトの判断力 スハルト自身公私の判断が出来なくなる。朝令暮改で国際信用は失墜する。
イスタナ(官邸)での決定はチェンダナ(私邸)でひっくり返される。変動相場制で確約したものが、
固定相場(カレンシーボードシステム)を献策したのは不肖の息子の友人ピーターゴンタやステイーブンハンキイ等で私利私欲の結果だった。海外金融界は当惑し不信に陥った。
'Nasi Sudah menjadi Bubur飯が粥になった(覆水盆に返らず)'
娘が銀行で5万ドルをルピアに換金してルピアを愛しましょうと宣伝するしかない無能ぶり。
経営破綻の16銀行を営業禁止、次男のアンドロメダ銀行が営業取り消しを不当と裁判を、三男がIMF条項は新たな植民地主義と抵抗するが、兄弟の国民車計画も輸入関税の妙味が薄れ頓挫する中、1998年度国家予算総額33兆4919億ルピア(約2兆7千億円)の前年度比32.1%の大幅増しの拡大予算で世論を唖然とさせる。
米国大統領もIMF条項遵守を要請、サマーズ財務副長官を派遣した。
11月 スハルトがメッカ巡礼で発病(心臓発作)一時死亡説や暗殺などの誤報が飛んだのも期待感があったのだろう。市場騒然とする中、ASEAN会議を欠席。
ルピア対ドル相場一万ルピアに下落。コーエン国防長官も訪イ。
上場企業8割が事実上倒産 リムの主宰するバンクセントラルアジアも倒産、彼はアメリカに遁走。労働人口九千万といわれるインドネシアで失業者440万人から800万人に、 運悪く一月の断食明けイスラム新年と華人正月が重なるが、庶民300万人が帰郷訪問が困難となる。
国庫補助金撤廃で石油電気生活基本財が軒並み高騰する。
1998年一月15日予算案の大幅見直しを含む改革案に合意し、IMFカドムシュ専務理事の立ち会いで経済改革策の確約書に署名するスハルトの写真は、同国政府が実質的財政権を放棄しIMF管理国家に転落する姿だけでなく、スハルトの威信失墜を如実に表すものだった。
国民協議会での大統領選出にも「国民が望まなければ拘らず、精神的指導者で導きたい」とアドバルーンを揚げながら「望まないながらも推されて引き受ける」形に拘った。
物価高による生活苦は頂点に達し、不穏な空気は、過去のジェノサイト時代を知らない若者には怖くない。学生の大統領不信、浄化運動Reformasi(改革)がインドネシア民族青年フォーラムを結成、それに押されるようにメガワテイを立てて新党闘争民主党(PDI・P)を、知識人イスラム・ムハマデアを糾合するアミン・ライスが活動を始めた。
物価指数は二月前月比12.7%で一月の6.88%から倍増、各地で米よこせ運動が勃発。物情騒然となる。
三月一日の国民協議会(MPR)を控えて元国軍最高司令官副大統領トリ・ストリスノは「この世に太陽がひとつであるように二つの光りが存在する余地はない」と記者団に語り
「決して出過ぎず大統領の退屈を紛わす上品なジョークを忘れない」と一期での引退を表明した。

三月九日国民協議会は全会一致でスハルトを第七期大統領に選出した。
スハルトは国家権限の全てを掌握する国家非常大権を要請した。
禅譲となれば副大統領が重要な地位で、焦点は此処に絞られた。
スハルトはバビビ国務大臣を副大統領に指名した。平時で副大統領は飾り物か閑職であったが、今回はスハルトの老齢、予断を許さない社会不安で、彼の国際手腕に期待したのか。
子飼いの腹心国会議長ハルモコ、国防大臣ウイラント(元大統領副官)政治治安相ファイザルタンジュン、経済相ギナンジャールなど候補者は多かったのに。
しかし閣僚名簿が発表されて唖然とする。多くが身内や腹心で固められていたからだ。
社会相に長女シテイ・ハルヤンテイ、産業貿易相に政商ボブ・ハサン、大蔵大臣は財団運営に関与し三男の国民車推進派忠犬ファド、内相には長女と噂のあるハルトノ陸軍参謀長、中央銀行総裁にはドル連動制(国際国内世論で中止)を準備したサピリン。長女は国策大綱作成で中心的役割を果たし入閣を機に首相の役割を負うと考えられるが、この時期にはスハルトはチェンダナ自邸で執務し、そこに行けるのは長女と三男しかいなくなっていたからであった。
スハルトはIMF経済改革は憲法(第33条は国家経済は家族的友愛に基ずく。国家国民にとって重要生産分野は国家が統制する)に合致しないと発言、ルピアは対ドル10350から一気に12500ルピアに暴落した。IMFは援助を凍結した。国家財政は破産した。

世界中を西欧米国型経済にする動きで、ナショナリズムの台頭が懸念されるが、膨大な海外債務と利権構造による不信感充満の国内経済は、国際信用を回復する為にIMFの処方で1ドル5000ルピアの水準までの回復させる決断以外にない。
インドネシアは資源国とは申せ実は輸入大国で大豆小麦はじめ電化製品自動車、主力輸出商品繊維も原綿など100%近くが輸入に頼る。ルピアの暴落は即あらゆる民生を麻痺させる。
加えて経済システムの崩壊で、輸出用コンテナ不足が深刻となり滞貨、石油基地の生産性も給料遅配、設備投資不能で輸出不能。1996年1155ドルまで向上したGDP(国内総生産)は現レートで350ドルたらずに下落してしまった。経済規模は3分の1に縮小して元の木阿弥。
浮かれた茶番劇は終った。
農村は細々と自給は不可能ではないが、大旱魃で大打撃、膨張した都市人口は失業増加で深刻な状況となった。

3月14日橋本総理は国際協調を取り入れるよう説得の為急遽同国を訪問する。
米国はモンデール特使を送り物別れになったからか、日本商社の貸し金保護か、余剰米を無償供与、医療器具十億円、30億円無償援助を持って説得したが「テレマカシありがとう」だけで効果はなかった。一部には泥棒に追い銭といった悪評も聞かれた。
日本企業のインドネシア向け投資は群を抜いており累計213億ドル、インドネシア民間企業が日本の銀行からの借入金派230億ドルといわれ、ルピア貨価値が4分の1以下になった今返済は困難になっている。
ルピア暴落で日本国内で好利回りで人気のインドネシア企業がらみに外国債券の殆ど約100億円近くが償還不能になってにのぼるとみられるといわれる。
四月八日になってギナンジャール経済調整大臣は三度目の確認書をIMFと交わし合意に達したのも、原因はファミリイ企業の処遇だけにあったといえた。
資産凍結七銀行のうちスハルト従兄弟スドウイカトモノの2行次女の夫プラボウオ兄弟の2行
次男の1行が含まれ、七銀行の再建庁管理下にはサリムのダナモン銀行や輸出入銀行が含まれ三男ゴロ社の食料調達庁の特認免許が破棄された。国産自動車問題も自動的に終結した。
IMFは監視機関設置を条件に支援再開に合意した。
スハルトは有力華人に800億ドルの海外資金還流を要請した。さんざ儲けさせてやったのだから助けろと言ったのか、市場の反応はなかった。それかあらぬか官憲の強力な買い占め売り惜しみ摘発、反華人キャンペーンが始まった。こうなったのも悪徳商人チナ人のせいだと。
各地で商店街焼き討ち、略奪事件が発生したが警察は放任に近い対応だった。
華人被害総額は百六十億ドルでIMF支援の半額に達した。

◆ 多発した騒乱の原因を調べると、インドネシアに内在する諸要素が噴出している。
それらは多民族や異宗教が原因よりむしろ飢餓に近い赤貧、人口爆発特に都市の超過密、政府主導に
よる強制移住による種族間の軋轢、無学と失業青年達の疎外感、潜在する悪徳華人商人への怨嗟、
それに乗じた扇動集団のそそのかしで、世代年月を越えた深刻な異民族間異宗教への差別による殺戮
ではない。
我が国メデイアではイスラム教徒とクリスチャン、インドネシア人と華人の抗争と報道されたが、そ
れが主因なら政治経済の混乱に関係なく世代を超えて特別の地域でこの種事件が発生していたはず
だ。
事件が悲惨で残虐なものであっても、これらは社会の混迷で発生し、安定に向かえば数ヶ月で終息す
るものだからである。訓練された或いは職業的雇われ集団が各地で暗躍して事件を誘発し無節操な群
集がそれに乗った証拠があがっている。多くの未成年が嬉々として掠奪に参加していた映像があった。

◆ 930事件での国家暴力は大衆に抜き難い恐怖心を植え付けた。
スハルト時代になって事あるごとに国家テロとして誇示された。
東チモール統合で15万の人々が死亡し、80年代にはジャワで'正体不明の暗殺者'によって数千人
が好ましからざる人物として処分された。北スマトラ・アチェでも分離派数万人が殺されている。
1984年ジャカルタ・タンジュンプリオク事件、1989年南スマトラ・ランポン、1991年チモール・デ
リ事件以後騒乱は年とともに全国に蔓延しはじめる。
'95年11月ペカロンガン事件: バテイック布産業への華人進出に対する危機感。
同月プルワカルタ 五千人騒乱掠奪放火。デマによる反華人不信感。
95年11月アタンブア:国内移住政策強行で新旧住民反発。東ヌサテンガラ州ではこの種の暴動が2
年間で48件発生。
96年十月シトボンド: マドウラ人によるキアイ(宗教指導者)中傷が反キリスト教暴動に発展、牧
師2人殺害修道院教会放火。
三月 イリアン: 国境地帯の分離運動、キミカ銅山土地収容闘争など。96年四月ウジュンパンダン:
学生運動。 96年12月タシクマラヤ:開発計画への不信。同ポンテイアナク・サンバス:移住人とダ
ヤク住民との紛争。

◆ Amuk: 集団狂気 英語辞書にも載る程インドネシア独特の衝動。理由も動機も定かでなく突然狂気
に走り群集に伝染してゆく。発生と同じに突然沈静化して普段の姿になる。
世界でも最もおとなしいといわれるジャワ人のアムックは時にすさまじい惨劇を呼ぶ。
SARA問題: Sukuismu(種族主義)Agama(宗教)Ras(人種)AntarGolongan(集団階級)
の略語で、メデイア報道で高度に慎重を要する事柄。

◆ ラジャワリ特別工作隊:プラボウオが東チモールで展開した国軍司令官軍管区司令官命令系統外、直
接スハルトと繋がった。隊員の黒装束からニンジャと呼ばれた。
政策研究会(CPDS): アリ・ムルポトのモサド系戦略国際問題研究所(CSIS)のイスラム右派版。
Tim Mawar(薔薇団):陸軍特殊部隊第四集団で編成。プロボステジョ(スハルト異母弟)が資金提供だが
確たる証拠はない。
パンチャシラ青年団:金目当てのならず者集団で放火掠奪扇動暴行レイプなど社会不安を醸成させる。
政治経済混乱のなかでの各地に発生した騒擾事件は、宗教民族紛争とするメデイアだが、その殆どは
これらプロ集団の巧妙な扇動に乗った絶対貧困層に起因する。


「120人のスハルト一族をとるのか、二億人の国民をとるのか」
五月 経済改革の一環としてガソリン70%灯油25%電力料金20%の値上げ公共交通料金も上がった。限界がきた。北スマトラ・メダンですさまじい暴動が発生し全国に飛び火。
反政府抗議、飢餓状態の絶対貧民層の掠奪、それを扇動する工作集団の混乱は遂に発砲事件に進展し抗議運動は先鋭化して学生等が街頭に出て治安部隊と対峙する緊張になった。
値上げを撤回できないなら全閣僚が辞任すべきだといった強硬意見も政権内で出始める。
5月9日 スハルトは15日帰国予定で、非同盟諸国G15首脳会談でカイロに出発したが、
「現状に合わない規定を改革するにやぶさかではないが、それは2003年以降に用意されねばならない」と現状把握がなされていない状態だった。
12日 トリサクテイ大学での五千人集会で警察部隊と睨み合いの時、複数のスナイパーによって6人が射殺された。翌13日犠牲者追悼集会でも治安部隊と激しく衝突を繰り返し、それに呼応して地方の学生が抗議集会、路上に溢れる。
国軍司令官ウイラントはただちに国軍は発砲命令はだしていないと声明。スハルトはいつも学生の本分は学問でデモではないと言っておれなくなった。弾圧するか否か、国軍分裂も想定した決断を迫られ急遽帰国した。機上で国民の信頼が得られないなら賢者になって神に仕え助言すると9日の国難を回避する続投発言を修正したが、長年の独裁者は国民の不満を過小評価した。
スハルトの意図がどうであれ、これでポストスハルトが現実味を帯びた。
14日朝ジャカルタ下町コタで掠奪放火がはじまり、またたく間に全市に飛び火してすさまじい騒乱となった。華人商店が軒並みやられ集団暴行され、チレドウックプラザでは400人以上が逃げ遅れて焼死した。
ある集団がトラックで乗り付けて暴徒を扇動したとの多くの証言があった。
ウイラント国軍司令官以下参謀は同日は第二師団の式典出席の為東部ジャワ・マランにいて急遽帰京したが鎮圧は出来なかった。
ジャカルタではウイラント司令官更送プラボウオが実権掌握の噂が流れた。これはスハルトが930事件で権力を奪取したシナリオと酷似していた。インドネシア大統領には'イスラム教徒でジャワ人の軍人で頭文字がSがつく色男'がなると言われていてスカルノ、スハルトの次は副大統領ストリスノかと噂があったが、スピアントではないかと囁かれもした程の急激な上昇だった。
権力死守を目論む彼(特殊部隊司令官)が作為的に騒乱を起こして、ウイラント国防治安大臣罷免、やはり国父スハルトがやらねばこのザマだと扇動し、あわよくば娘婿として次期権力者として禅譲される望みがあったのではないか。スハルトファミリイは安泰だからでもある。
15日 スハルトが外遊を早めて帰国した。
国民に忍耐を求む、学生との対話の用意はあるが完全な準備が必要とムラデイ法相に、ウイラント国防治安相はハルトノ内相と八閣僚が全国17大学学生代表と会談する用意ありと発表したが、事態は彼等が予期した以上に急展開していた。スハルトの場当たり的発言と懐柔策、柔従不断と朝令暮改の決断力の衰えを優慮して危機感が募り、スハルト抜きの権力の温存に走った。
インドネシアの政治経済は完全に麻痺した。庶民に怨まれているファミリイ、華人政商のビル、ホテル、ショッピングモールが集中的に襲われて炎上掠奪され、一族のトトウットはボストンにトミイはロンドンに逃亡しスハルト自身国内にいないのではないかと流言が飛んだ。
反体制派のメガワテイ、アミン・ライス、エミル・サリム、イスラスル・アマン、アブドウル・ワヒドなどが公式に退陣要求声明を発表し事態収拾に参加をはじめる。
識者は治安回復の理由で国軍主導での政治改革(大統領罷免)を容易にする作戦、または前記のクーデター説、集会なり騒乱が十万人規模に膨張したらいずれにしても発砲鎮圧となる優慮がでてきて緊張する。
米軍強襲揚陸艦ベローウッドなど4隻哨海艇2隻原子力潜水艦ヒューストンがコプラゴールドと呼ぶ共同訓練参加の名目でインドネシア周辺海域に展開、沖縄駐留海兵隊千七百人が集結した。在留外国人の一斉引揚げがはじまった。
スハルトはいかなる犯罪行為も徹底取締り、暴動ニュース放映禁止、内閣改造に言及。
アミンライスは学生は20日百万人規模のデモを行うと声明。
18日 スハルトの子飼いハルモコ国会議長は、議長団声明として大統領辞を含む国民協議会の臨時開催を要求、国軍、翼賛政党ゴルカルも分裂、反勢力は改革評議会開催を要求した。
スハルトなきスハルト体勢no温存を図った。
19日スハルトはイスラム知識人ヌルホリス・マジド、アイヌン・ナジブ、NUのワヒド氏等と会談のあと、テレビで「改革を指導した後段階的に退陣する」と比較的穏健な提案を受け入れた。
20日 民族覚醒の日のスハルト打倒を叫ぶ二万人の学生は、アミンライスなどの呼びかけに応えて街頭デモを中止し国会を埋め尽くすが、驚くほどの自制で重なる惨事を回避、首都に散開した三万九千の治安部隊も道路封鎖したが距離をおいて厳戒態勢をとった。
意気軒昂なアミンライスの大集会が急に態度を軟化させたのは、国軍ウイラントの意志が不明だった事、武闘派プラボウオの出方、イスラム指導者がパイプ役にたってスハルト側と調停していたと見る事ができる。治安部隊員にも弾圧鎮圧する意欲がなかったようにも見える。兵士と学生の交歓風景もカメラに収められた程だった。
ギナンジャール経済調整大臣が閣僚の辞表を纏めてスハルトに提出。
ウイラント国防大臣は「もう支えられません。御家族はお守りします」と言った。
プラボウオは秩序維持の為の危機管理センター構想をスハルトが採用したが、スバギオ陸軍参謀総長、ウイラントの三すくみで設立出来なかった。当然の事でこれは国軍を含む全ての国家権限掌握となりスハルトの後釜が見え透いていたからだ。
ハビビはウイラントに国軍司令官国防大臣を継続するよう要請しウイラントはプラボウオ戦略予備軍司令官解任を要請し、これでハビビ・ウイラント同盟ができた。
(スハルト辞任後七月になるとプラボウオの罷免訴追で失脚した。)

21日 二転三転したスハルトの去就は遂に辞任で終った。
後任には憲法八条により副大統領ハビビが2003年までの残り任期を引き継ぐ。
翼賛与党ゴルカルの分裂、ハルモコなど腹心の離反、ウイラントの家族の安全保障、閣僚11人の辞職、市民学生の大規模闘争、IMF援助停止、オルブライト国務長官の実質的勧告と自身の健康不安で往年の意志が萎えたのが原因だった。
間接原因は勿論KKNで、子供達への溺愛と過信だった。
スハルトは長女社会相トトウットと即刻国会を後にした。一族宰相は僅か1ヶ月にも満たなかった。世界最長を誇ったスハルト政権は僅か20日たらずで敢え無く崩壊した。
スハルト治世での功績のひとつは義務教育の普及で、文盲率が急速に減少したことだ。
庶民の識字率進学率が向上して新しい世代が育ってゆき、独裁打破の起爆剤になった一方の要因が彼等学生たちと、扇動された最貧層無学な青年達の暴行掠奪だったのは皮肉な結果であろう。

32年にわたる長期独裁でこの国にネガテイーブ内閣は存在しないし政権経験もない。
体勢側の殆どが何らかの形で汚染されていて、それが常道、文化にまで変形しているのが現状だ。
これを正しい秩序に戻し、内外の信頼を回復するのは一夕一朝にはゆかない。安定するまでまだ二転三転する政局が予想されるのは、ハビビ政権は基本的にはスハルトなきスハルト体勢の維持だったからだし、法的には合法大統領でも、最高議決機関MPRの承認を要するからである。

ハビビ第三代大統領就任
ハビビの副大統領推挙が意外なのは、彼は外国生活が長く自身の組織も派閥も皆無、この国の帰趨を制する国軍とのパイプもないからだ。スハルトの鶴の一声で決まったといって過言ではない。ハビビは最大多数ジャワ人ではなく南スラウエシ出身の外領人であるのも奇異な感があった。
わずか3ヶ月もたたず自動的に大統領に就任したハビビも小型スハルトで不潔な印象は拭えない。短期政権になるのは明らかだった。
旧勢力ははゴルカルを主体に権力温存を図るべくレイムダックスハルトを見限ったのだが、
この時点で、世論は国軍の帰趨、言うならば主流派ウイラントと閨閥プラボウオとの確執から権力奪取の国軍分裂内乱を予想した人達も多かった。事実不穏な動きは特殊部隊が宮殿周囲に移動し、それを海兵隊部隊が取り巻いたりした。すべての交通は遮断されジャカルタは死の街となって住民は息を殺して成り行きを見守った。

ハビビは旧スハルトとの違いを鮮明にして世論を味方にするしか策はなく、出来ないながらも改革・開発内閣と銘打って組閣したが半数は残留組だった。
国会周辺の学生も間一髪の自制、治安部隊が用意したバスで散開したのはイスラム勢力の必死の説得が成功した。スハルトに最後の引導を渡したのがイスラム知識人だったのを知っていたから。
ハビビは矢継ぎ早に政治犯の釈放、政治改革後政権交代の総選挙、改革委員会設置、不正蓄財追求、治安部隊の学生射殺の究明と改革に理解を示し、国際信用を回復して経済を軌道に乗せながら正当なる大統領再任を画策した。
国軍司令官ウイラントがハビビ側を鮮明にしたのも大きかった。
最大日刊紙コンパスの調査では意外なことに支持率56.17%不支持16%を大きく越えていた。
これには前代未聞ともいえる外領出身ハビビに、ジャワ内領専横に牛耳られてきたスマトラ、スラウエシなどの外領人の期待が高かく、そのような動きも権力内で感じられた。
インドネシア人の国民性で「機会を与えよう」と政治休戦ともとれた。

与党ゴルカルはふたつにわれた。反主流は旧勢力のファミリイ一族と取り巻き、反体制派メガワテイ、ワヒドなど、急進イスラム、全く異なる両勢力を封じる為にはより多くの改革を発表せざるをえないハビビ・ウイラント・ギナンジャール政権は言論の自由、政党結成の自由、東チモール自治権付与など矢継ぎ早に発表した。
テンポしかなかった週刊誌が発禁解除されるとガトラ、テラス、フォルム、アデイル、タジュック、デタックなど相次いで発刊され、テレビ政治討論が定番となり、結成された新党は98年末には100を越え反体制派は拳の上げ場を失う。
メガワテイの闘争民主党ワヒドの民族覚醒党アミンライスの国民信託党もこの時期に結成された。インドネシアは左派、イスラム右派の台頭とパンドラの箱を開けてしまった。
革命急進左派を封じる為イスラム右派が保安挺身隊12万人を動員して3万の警察陸軍が臨時国民協議会開催に向けて警戒した。各地で衝突し死傷者がでた。
改革派メガワテイ、アミンライス、ハメンクブウオノ十世はワヒド邸に集まりチカンジュール宣言の声明で、45年憲法に基ずく連帯と統一、1999年5月総選挙、8月国民協議会開催、国軍二重機能撤廃、KNN追放、スハルト蓄財究明、保安隊解散を発表したが左派学生の要求とは遠く、
反政府中道勢力と決別となった。
選挙が出来なければ街頭デモが政治イニシャテイーブをとるのか瀬戸際に追い込まれ、社会革命とイスラム右派に対する警戒感が増大、政府と反政府中道勢力間で合意が成立、ハビビの暫定政権が決定、不可能ともみられた国軍二重機能も段階的縮小が決まり、インドネシア政治は総選挙に向けて走りはじめた。

1998年経済成長率マイナス15%インフレ80%、失業者2000万人世界銀行定義の絶対貧困層は総人口の40%の8000万人に達すると推計された。年間35万台の自動車販売数は数百台に激減した。社会不安は益々深刻化して政府と法秩序が崩壊、何かにつけて掠奪暴動が多発する。
強権時代に不法占拠された養殖場やゴルフ場、プランテーション米倉庫が対象になった。
ジャンベル、ナビレ、チラチャップ、タンゲラン、ポンテイアナク、ケブメン、ルウ、メダン、バガンシアピアピなど5月から8月までで政府発表だけでも1714件逮捕者4828人で歯止めはかからなかった。
ゴルカルの支持率はテンポ調査で不支持率73%に急落。ウイラントはかろうじて国軍を掌握したが、地方軍管区は勝手に天下り先を探して暗躍、旧体制ファミリイの揺さ振りはナフダトールウラマ指導者の連続殺人、南スラウエシ・ルウの紛争、アンボンの宗教紛争がそれである。
長くスハルト私兵に化して国民の敵となった国軍は国民の支持を完全に失い、陸軍の発言力は落ちた。

◆ インドネシアの学生層: 貧富と都市地方格差が著しいインドネシアでは、大学生はまだ選ばれた階級といえよう。国立の競争力は熾烈で私学の経費は庶民には負担出来ないからエリートである。
彼等は自活出来ないから社会を構成してはいないと考えるのは早計で、通常の良識と清潔な正義感が
ある。インターネット等によってすばやい情報が首都から地方都市の学生に流れて歩調を合わせたと
いわれる。
独立前夜、民族主義が勃興する時代の1928年、第二回インドネシア青年会議で'唯一の祖国民族言
語はインドネシアに外ならず'青年の誓い(Sumpah Pemuda)を採択して行動を開始したのは、まだ
少数の学生だった。彼等はエリートの誇りから非常時には必ず立つ。

◆ バハルデインJハビビ(1936ー) 南スラウエシ・パレパレ出身、母はジャワ人。小柄で多弁行動派、風采はあがらないが子供時代から秀才で神童といわれ、14歳で南スラウエシ内乱鎮圧隊長スハルトと知り合う。
60年ドイツアーヘン大学留学。33歳でメッサーシュミット航空機製造の副社長。スハルトに招聘さ
れてプルタミナ石油公団総裁から1978年科学技術国務大臣となる。
航空機製造会社は膨大な予算を浪費しハビビのオモチャ箱といわれた。原子力発電兵器製造生化学薬
品など16ポスト以上を占め、バタム島開発では親族のテイムスコグループの不明朗な蓄財噂が絶え
ず、リトルスハルトといわれた。

◆ メガワテイ・スカルノプートラ: ディア・プルマタ・メガワティ・スティアワティ・スカルノ
プトリ。1947年1月生れスカルノの長女。幼少時代は大統領宮殿に住むが、父親が失脚してからは
自由も拘束され経済的にも不遇で大学中退、ガソリンスタンドのおばさんだった。
スカルノの子供で政治野心のある者は居らず信奉者は落胆していたが、スハルト政権末期になって亡
父の創立した民主党(PDI)に担がれ1987年総選挙で初当選、93年党首になる。スハルトに民主党を
追われ悲劇の主人公で一躍革新のホープとなる。スカルノ人気は今も絶大でそのイメージと重複され
て急激に市民のアイドルとなるが、非常に保守的で政策もなく寡黙で人気先行実行力は疑問である。
闘争民主党(PDI・P)党首。総選挙で第一党となる。

◆ ハジ ムハンマド アミン ライス: 1944年中部ジャワ・スラカルタ生れ、74年米国ノートルダム大
学卒業、シカゴ大学博士号。ガジャマダ大学政治社会学部国際関係学科教授、1995年近代イスラム改
革団体ムハマデイア(会員2800万人)総裁、良くも悪くも典型的なジャワ人。

◆ ムハマデイヤ: 予言者ムハンマドに従う者の意。1912年近代イスラム改革運動組織。
善を薦め悪を排す、具体的にはイスラム教科の学校教育を推進してイスラムの自覚を高め、知識技術
を習得し社会福祉相互扶助社会正義に貢献するのを目的とし、政治的には常に中立を堅持して主とし
て都市部を基盤に一貫教育施設網で全国最大の組織となった。また多数の病院診療所孤児院協同組合
も設立し多くの医師教師弁護士を生んだ。
スカルノは流刑地ベンクルのムハマデイヤ教師、独立英雄スデイルマンは同青年団長、スハルトもジ
ョクジャで通学した。70年から政治中立の立場に戻り、三政党内政府内外のメンバーや支持者を通し
て影響力を与える方針に転換した。拡大による革新性の希薄化内部改革の動きもでていた。会員2800
万人 1995年アミン・ライス総裁。

総選挙と正副大統領選出
100余の政党が乱立し、混乱を避ける為に全国規模の政党が選挙登録される事になったが、これは1950年代の政治を想起させた。政党政治は議会制民主主義のこの時代のみであるからだ。
政党は離合集散を繰り返し首相も長続きせず、西スマトラ、南スラウエシ、アチェなどで反政府政権まで樹立された。1955年総選挙で国民党22%マシュミ党20%ナフダトールウラマ18%共産党16%だった。混乱する政治を'指導された民主主義'とゆう奇妙なスローガンで統一したのがスカルノだった。
それ以来の政党選挙となって人々は国民党に闘争民主党、国民信託党、民族覚醒党を投影した。
当時はナショナリズムかイスラムかコミュニズムかの思想闘争が顕著だったが、現在ははっきりしたイデオロギー対立は深刻ではなくなっている。
体勢派といわれるゴルカルは過激な元イスラム学生連盟(HMI)執行部にいるし、闘争民主党執行委員にテオ・シャフェイ少将(元東チモール作戦司令官)が在籍し、ゴルカル臨時大会で破れた退役軍人グループがワヒドに接近するといった具合である。
パワーシェアリングでは第一にスハルトとの完全決別か、国軍二重機能撤廃か、都市か農村か、外領かジャワか。これらの内憂の外にシステム外にある左派学生、ダルルイスラムなど急進右派、旧スハルト派の暗躍があろう。
いずれにしても総選挙、国民協議会で選出される新権力は、なんとしても法秩序の回復と正義が重んじられる社会を構築しなくてはならない。

第8回総選挙は参加政党48党、実質的にはゴルカル、闘争民主党(PDI・P)、開発統一党(PPP)、民族覚醒党(PKB)、国民信託党(PAN)となる。
大統領選出は総選挙直接投票ではなく国会議員を含む国民協議会の間接選挙である。
スハルト時代は一般選挙で選ばれた議員は協議会1000名の425票でしかなかったが、今回改正されて総員700名に減員され、議員452名(旧425から増員)国軍38名(旧75が半減)地方代表27州から各5名の135名と団体代表65名(旧大統領任命者500が半減)されやっと大統領は選挙の結果次第の仕組みが出来上がった。
総選挙は6月7日、全国と海外40箇所以上で一斉に投票。この最終開票結果は7月16日に出た。開票作業に種々疑惑が持たれているものの、PDI-Pは全有効投票数約1億580万票のうち、
3570万票(33.7%)を獲得、2位ゴルカルの2370万票(22.4%)を1200万票引き離し、首位に立った。

◆ インドネシア総選挙(June 7 1999)上位20政党
1. 闘争民主党 PDI・P Partai Demokrasi Indonesia Perjuangan
2. ゴルカル GOLKAR Partai Golongan Karya
3. 民族覚醒党 PKB Partai Kebankitan Bangsa
4. 開発統一党 PPP Partai Persatuan Pembanguan
5. 国民信託党 PAN Partai Amanat National
6. 月星党 PBB Partai Bulan Bintang
7. 正義党 PK Partai Keadilan
8. 正義統一党 PKP Partai Koadilan dan Persatuan
9. ナフダトウル ウマット党 PNU Partai Nahdlatul Umat
10. 統一党 PP Partai Persatuan
11. 民主党 PDI Partai Demokrasi Indonesia
12. マシュミ インドネシア イスラム党 PIIM Partai Politik Islam Indonesia Masyumi
13. 国民マルハエンフロント党 PNI Partai Nasional Indonesia Front Marhaenis
14. 国民党 PNI Partai National Indonesia
15. マルハエン国民大衆党 PNI Partai National Indonesia Massa Marhaem
16. 人民民主党 PDR Partai Daulat Rakyat
17. 信徒覚醒党 PKU Partai Kebangkitan Umat
18. インドネシア イスラム連盟党 PSII Partai Syarikat Islam Indonesia
19. インドネシア独立支持者党 IPKI Partai Ikatan Pendukung Kemerdikaan Indonesia
20. 民族慈愛民主党 PDKB Pertai Demokrasi Kasih Bangsa
党名だけでみると、インドネシアはイスラム系が圧倒的で、民主主義、全国統一を標榜している。

総選挙の結果、国会500議席の比例代表制議席配分は以下の通り:
闘争民主党 PDI/P 153
ゴルカル党 Golkar 120
開発統一党 PPP 58
国民覚醒党 PKB 51
国民信託党 PAN 34
月星党 PBB 13
その他政党 33
国軍 38

国民一般はこれでメガワティが大統領になるものと思ったし、彼女自身第一党党首が当然大統領になると公言した。最高意志決定機関 国民協議会の根回し票読みを怠った。

共和国最高議決機関 国民協議会(MPR)
10月1日。国民協議会が21日間の予定で開催された。国民協議会議長選出、東ティモールの独立の可否、憲法改正、正副大統領選出が主要課題。

ハビビ施政結果報告否決さる
9月27日ハビビ政権の経済担当大臣ギナンジャールほか6閣僚が辞任、ハビビに見切りをつけて国民協の議員に転出した。
10月14日、ハビビ大統領は過去16か月の施政結果を国民協議会に報告し承認を求めた。
しかし基本的なマクロ経済数値の誤り、東ティモールの帰属を国民協議会の承認なしに実施し、結果として領土を失ったこと、バリ銀行スキャンダル(ハビビ派の選挙資金疑惑)解明がなされていないこと、スハルト不正蓄財疑惑追及が全く効果を上げていないこと、金融再編(外国への債務返済含む)計画が遅々として進まないこと、等に与党のゴルカルからも批判が噴出、ハビビは釈明演説を18日に行ったが、19日の了承可否投票で600票中434票の反対多数で否決。
ハビビは、同日ウィラント国軍司令官の副大統領候補辞退と併せ、政治生命を絶たれた。

分単位で激変する主導権争いは全く予断を許さないドラマで、旧守派、大衆人気、冷遇されていたイスラム各派復権、国軍権力維持が激しく衝突した。
まず動きすぎた策士アミン・ライスがMPR議長に祭り上げられ、ゴルカル総裁アクバル・タンジュンが国会議長に就任した。
ハプニングは10月3日の国民協議会議長選出でまず起きた。PDI-Pと第4党の民族覚醒党が満を持して送り込んだマトリ民族覚醒党総裁が第5党で国会議席がわずか35に過ぎない国民信託党のアミン・ライス総裁に305:279の26票差で敗退したのである。この衝撃はメガワティを直撃した。アミン・ライスを大統領候補に出させないために、最悪でもアブドラーマン・ワヒドを大統領をさせるために、この2人は死に物狂いの政治的寝業をあらゆる方面に仕掛けた。

10月20日大統領選挙に立候補したのは、アクバル・タンジュン、メガワティ、アブドゥラーマン・ワヒド(民族覚醒党の創立者だが、総選挙には出ず、宗教界グループとして議席を得た)、第6党月星党の党首ユスリル・マヘンドラの4氏。アクバル氏は本会議開会前に立候補取下げ、ユスリル氏は本会議冒頭で口頭で取下げ、メガワティとワヒドの一騎打ちとなった。
ワヒドは「結果は見ての通りである。私も私の支持者もこの現実を受け入れなくてはならない。」と手短なコメントし第四代共和国大統領が選出された。

◆ ナフダトール・ウラマ: NUイスラム学者の覚醒を意味し、1926年東ジャワのスラバヤ、ジョンバンを中心にスンニ派の伝統四学派の法解釈を正統として結成された穏健イスラム会派。ジャワ九聖人(ワリソンゴ)、王族を含み農村でプサントレン(寄宿塾)、民衆の宗教指導、統治者への助言を果たしてきた。NUは1930年代末には民族運動に参加し全インドネシアイスラム協議会を主催、日本軍政下ではハシム・アシュハリ総裁が重用された。オランダとの独立戦をジハド(聖戦)としヒズブラ、サビリラ戦闘組織が活躍した。52年イスラム連合勢力マシュミ党を脱退し55年第一回総選挙総得票の18.4%を獲得して四大政党のひとつとしてNASAKOMの一翼を担い宗教省を基盤に行政の中核になる。スハルト政権では73年のPPP(開発統一党)に連合されても30%弱の投票率を確保したが79年以降原点に帰れと非政党化、農村社会開発教育振興を基本方針としたので87年第5回選挙でのPPPの得票率は16%に急減した。現総裁は創立者アシュハリの孫アブドウルラフマン・ワヒドである。会員3000万人。

◆ ケアイハジ アブドウラフマン ワヒド: 54歳 NU総裁。宮廷の道化師、寛容、日和見、計算ずく、
寝業師、自由人、予測不能、毒舌直言家、ユーモリストなど多くの喩えがあるのは、家柄の良さから
くる悪戯坊主の怖さ知らずなのかもしれない。祖父がNU創立者で初代宗教相、代々イスラム指導者。
厳しいイスラム教育を受けカイロのアズハル大学神学イラクのバグダッド大学文学専攻豊富な海外経
験と読書家。ネクタイを嫌い靴も履きたくない自由人。
家庭的には不幸続きで、十代で父親を数年前母親をともに交通事故で失い、同乗していたヌリア夫人
は身障者。自身も1年前脳卒中で倒れ、視力はないが強健で行動力に富む。グスドウルは愛称。ドウ
ル坊ちゃんといった意味でスカルノのブンカルノを想起させる。夫人とに4人の女児がいる。
ワヒドの伯母にあたる人は13才の頃スカルノがワヒドの祖父宅に寄宿しイスラムの教えを学んでい
た時分、スカルノと形式婚をしている。メガワティがワヒッドを従兄弟の「兄」と見るのはあながち
儀礼だけにとどまらない。
90年に週間タブロイド版が'最も尊敬される50人'アンケートを行ったら予言者ムハンマドが11位
になって、イスラム団体学生が神への冒涜と騒ぎ出し、政府は発禁処分、イスラム知識人も支持した
が、ただひとりワヒドが異議を唱えた。「神は偉大だ。タブロイド如きに侮辱され得る存在ではない」
スハルトが腹心ハビビ大臣を会長とするイスラム知識人協会の設立でも「優先すべきは民主化で宗教
を政治に利用するのは反対」と一貫して加入を拒み続けた。

ワヒドの作戦
ユスリルはスハルト元大統領のスピーチライターをしていた人物で、ハビビが出馬しないとなった時点で、ユスリルの出馬はワヒドにとって番狂わせな事態だった。ユスリルが出れば、非イスラム派とパンチャシラ派の票がアクバル、メガワティ、ワヒドに割れ、急進イスラム派322票をそっくり受け継ぐユスリルが大統領になりかねない。これはイスラム穏健派のワヒッドとしては何としてでも粉砕しないといけないことだった。
信者総数で圧倒的優位に立つ、ワヒド率いる穏健「ナフダトゥール・ウラマ=NU」派ムスリムはアミン(近代派ムスリム=原理派に近い)らに猛烈な圧力をかけた。「ユスリルを降ろさなければ、NUは聖戦をせざるを得ない」。アミンはユスリルを説得した。
ワヒドは今回でのメガワティ大統領はないと認識した10月3日以降は、むしろ自分を大統領にする戦術に切り替えたフシがあり(ここでワヒド以外の人物が大統領になれば、メガワティの将来の可能性もなくなる)、結果として兄・妹の一騎討ち。ナニワ節的要素もあって、観客(国民)を魅了したクライマックスを演出した。
52才のメガワティにとって5年後の総選挙と大統領選挙はまだ充分闘える年齢だしワヒドの健康不安もある。
メガワテイの大衆人気は判官贔屓のところもあり、政治家として未知数なのは、政策論争がないことだけでなく、東チモール独立阻止撤回、教導主義の議会工作不能で敗北、強く拒否していたが副大統領を承諾など幼稚さをさらけ出した。
副大統領となって東インドネシア関係担当となったが、同地域は過去現在多くの問題を噴出してきた。手腕が問われる。
ワヒド373票 メガワテイ313票 棄権5票 中道イスラムを結集した反体制指導者が勝利した。
ワヒド新大統領は宣誓式演説で'大同団結'を呼びかけメガワテイを副大統領に指名した。
ムシャワラ(徹底的話し合い合意−インドネシアの伝統)妥協にたった中軸イスラムを基にした妥協だったが、未曾有の内憂外患での政治舞台でのワヒドの動きは政界の寝業師以上の類希な戦略家が浮き彫りにされた。
ジャカルタ株式市場はこの日5.5%上昇しルピアも対ドル7600から695ハジ アブドウルラフマン ワヒド 第四代インドネシア共和国大統領0に値上がりした。


今回の国軍人事で最も瞠目すべきは最高司令官を海軍から選んだ事であろう。
インドネシア国軍すなわち陸軍が建国以来の常識だったからだ。新大統領は広大なインドネシアにおける領海の資源(の権益)を守るべく海軍力強化、新政権の方針を分析する重要な演説で、ワヒド大統領は自らの政権が新しいナショナリズムの精神をもった改革政権になることもつけ加えている。具体的な国名は挙げなかったが、ワヒド大統領はこれまではインドネシアの尊厳や独立がほかの国によってひどく脅かされてきたということにも言及した。
外交上の優先事項の転換として、オーストラリアやその他欧米諸国について、とくに演説にはのぼらなかったが、数週間後には中国やアセアン諸国を訪問する計画があること、またイスラエルとの国交正常化をまとめたいと考えているともいう。こういったことは前政権の外交優先事項だったようにも思われる。

新大統領は、アチェやイリアン・ジャヤの分離問題にも終止符を打ち、アンボンでの宗教間の争いも止めさせるために尽力することを約した。「アンボンのことを考えてみると、キリスト教徒とムスリムが見境なく争っているのは、ばかげている」とワヒド大統領は語っている。

A.ワヒドは高名なイスラム導師の家に生れた、生まれながらの指導者を約束された人生を歩んだ。海外留学のあと約束されていたようにインドネシア中道イスラム最大組織の総裁に就任した。
発言は毒舌ともいえる直裁で内外に非常に知己が多く、隠然たる存在感があり庶民の良識を代表して人気がありグスドウル(ドウル坊ちゃま)と愛称で呼ばれるリーダーだった。
毛並みの良さからか、人を人と思わない直言や子供じみた比喩で悪ふざけする時もあり、
グスの考えている事はグスしかわからないといわれる策士でもあった。
政治とは常時一線を画し、今回の選挙にも立候補しなかったが、有力者は常に彼の存在を意識していたのは確かだった。スハルトとも対等で話せるのも金銭や立場に坦懐だからだろう。
今回の政変で彼がメデイアに登場したのは政変劇の序盤の98年5月19日イスラム導師とスハルトを訪ね直言した時だけでその後沈黙している。記者の質問に「スカルトは女にクレイジイ、スハルトは銭にクレイジイ、ハビビは? ただクレイジイなだけ」と言い切ったが行動は起こさなかった。
98年十月ハビビ政権が最初に臨時国民協議会を招集した日民主化活動家メガワテイ、アミン・ライスとハメンクブウオノ10世を自宅に呼んで懇談してメガワテイを支持すると表明した。
イスラム右派から大統領に女性は相応しくないとゆう主張を「もういちどコーランを読め。男も女性からうまれたのではなかったのか」と取り合わなかった。
辞任後のスハルトが入院すれば見舞いに行き、ハビビとも再三会合し、東チモールノーベル賞受賞者ホルタ氏とも会う顔の広さでメガワテイとは兄妹の仲だと言っていた。
アミンがワヒドにメガワテイ支持を要請した時「私は彼女とは兄妹の仲、貴方がメガワテイを支持すればいい。そうしたら私が支持したことにもなろう」と煙に巻いて言質を与えない老獪さ。
メガワテイが集票工作に失敗するのを見定め、大統領選出投票の僅か二日前態度を明らかにして立候補を発表した。
世論は現在の混迷したインドネシアでは、これ以上の騒乱を回避する為にも、僅かな選択肢ではベターな選択と受け入れられた。問題はワヒドの殆ど視力がない健康不安だが、大統領就任後精力的にアチェ問題など案件を処理している。アジア重視、海軍増強を発表して最初の訪問国を近隣諸国に、国軍最高司令官を海軍から任命した。
10月26日、グス・ドゥルは「Persatuan National挙国一致内閣」を組閣した。
 アブドゥルラフマン・ワヒド大統領が26日に明らかにした新内閣は検察庁長官や国軍司令官をふくめ35人の大所帯となった。政党に対して便宜を図るとともに、グス・ドゥルは地方や軍の利益を考慮して大臣選びをおこなった。
しかしながら最も驚かされるのは、この前の総選挙でわずか7%の得票率しか得られなかった国民信託党のアミン・ライスが国民協議会の議長に就任し、イスラーム中道勢力から大統領候補を出馬させることに成功し、多くのものを内閣に送り込むことができたということだ。
 アミンは、グス・ドゥル内閣のポストの24%の入閣を請け負った。国民信託党からは4人(文部相 ヤフヤ・ムハイミン、財務相 バンバン・スディブヨ、移住相A・ヒラル・ハムディ、人権担当国務相 ハスバラ・M・ハムディ)、国民信託党以外のイスラーム中道勢力からは4人(協同組合相ザルカシ・ヌル、林業エステート相ヌル・マフムディ・イスマイル、社会福祉貧困担当調整相ハムザ・ハズ、法相ユスリル・イフザ・マヘンドラ)が入閣した。
 一方、この前の総選挙で33%の得票を得た闘う民主党からは4人しか入閣しなかった。また総選挙で3番目に多くの得票を得た民族覚醒党からは4人、2番目に多くの得票を得たゴルカル党からは4人が入閣した。メガワティを副大統領にするうえで、非常に重要な政治的態度を担ったと言われる国軍には、国軍司令官のほかに5つのポストが割り当てられた。
 グス・ドゥル内閣にアミン・ライス支持者の一団が進出したことは、グス・ドゥルに対するアミン・ライスの勢力の強さを指し示している。中道勢力に賛成しなかったファイサル・バスリは、アミン・ライスが権力の座につくための野望を持ちすぎていると批判している。

内憂外患
ワヒドは組閣終了を待ち切れないようにして行動にでた。
アジア重視を印象ずけるように、ミャンマー、マレイシア、シンガポール、タイを歴訪して特に華人資金還流を要請、帰国する間もなくアメリカから日本、中国を歴訪する。
出不精で内弁慶だったスハルト、国際人ハビビにもなかった行動力である。
懸案のアチェ州問題では独立派首領とも会談すると言っている。

政権への期待が高まっても経済の数字が変わるわけではない。天文学的な対外債務は国内総生産GDPの半分に相当する700億ドルの返済、銀行不良債権への資本注入、ルピア安定策、産業基盤確立、なによりも国内に蔓延した相互不信、日常的になった安易な暴力、法秩序を無視した極左極右の街頭示威、極貧脱却、地方分離独立問題など気が遠くなるような難問が山積している。
権威失墜して勢力を失った国軍は、それまでの銭まみれ裏給与が閉ざされれば'生活'はどうするのか。低所得を裏金で充足して、スハルト時代権力保持の為に大量に増員された将校、行政官がそのまま残っている。国軍は潔い撤退を演出して民主派に大きな貸しを作ったとゆう識者もいる。
共和国の汚職は文化の域にまで達したのを一夕一朝に浄化することは不可能とも思われる。
営々と築いてきた権益をおいそれとは手放さないだろう。
行政の不明朗な要求などは構造的な悪癖で、地方では軍官癒着して練金機構を作っている噂もある。大増員されて旧政権維持を図ってきたツケで、公務員に罪はないとは申せ。
治安不安になっての3年、マラッカ海峡はじめ多島間での密輸や禁制品(麻薬、武器等)の取引きは信じられない程に増えているとゆう。 先日の海賊被害も船ごと強奪しているすさまじさだ。旧守派特にファミリイ一族はいまだ安泰で、多額の蓄財を使って不穏な工作隊を動かし回生一番の動きがある。スハルトは市内のチェンダナ私邸から、広壮な大邸宅(宮殿)に移り、一家眷族を
呼び寄せた。此処を根城にした策謀を弄す算段なのかもしれない。何せ子供達は無思慮だから。
なによりも早く、新秩序の構築、正直者が馬鹿を見ない正義と勤勉な社会を造って欲しい。

アチェ州分離問題
インドネシアは旧宗主国オランダの権益地を領土として独立を達成した。
その時代ではそれしか選択の余地はなかったが、領土は植民地政治領域で、地域性文化種族一切が無視された。一万数千余の島嶼国は'多様性での統一'と謳わざるを得ない困難を建国の時点で既に内包していた。分離独立はそれだけで列強国の干渉を容易にするから'インドネシアはひとつ'は不変の定理であり、その為に国語の統一、種族別統計(人口等)は意識的に算出しない。
インドネシアは島嶼列島だから地域性が強く、同一基盤はマレー系亜種が赤道列島に住むといった程度のゆるやかな連携に過ぎない。300以上の種族が450種の地方語を今も使用する。
それぞれの地域にそれぞれの問題があっても固く封印されて半世紀がたった。
世界の情勢は東西二極化が崩壊してから地域社会の尊厳と特殊性を全面に押し出した紛争が続出している。東ヨーロッパ、中東、黒海カスピ海周辺、旧ユーゴ、アフリカ諸国、中国北東部など枚挙にいとまない。
パンドラの蓋を開けたインドネシアも鬱積した欲望が噴出している。
東チモール(ポルトガル領)は建国理念から、インドネシアは当初は領有権を放棄していた。
イリアンも独立後24年もたった1969年、奇妙な住民投票によって共和国帰属が決定した(日本国の1.8倍もの未開地に散在する117万人住民の投票方法は疑問)。
困難を更に倍加するのは、その地方性の片寄りである。
人口の約7割が領土の8%に満たない小さなジャワ島に密集し、世界最高密度(800人)なのに、カリマンタンは僅か14人の違いがある。政治の主流は常時ジャワ人が占めるが、豊富な地下資源はジャワ島以外の外領に産する。スハルト時代のジャワ人優遇から外領人の中には「ジャワ人は子供を作ることしか知らず、我々の財産(資源)を盗んでいる」と誹謗する人は多い。
確かに経済は首都ジャカルタに集中して、地方に力もチャンスもない。

民主主義を履き違えたのか単なる地域エゴか、はたまた止むにやまれぬ怨念か、そういった内憂から各地で分離騒動が発生している。
殊にアチェ(インドネシア最西端)紛争は、先刻の東チモールとは性格も重要性も比較できない。
ヨーロッパ・中東とアジアを繋ぐ狭いマラッカ海峡の入り口にある戦術的要害の地で、此処の紛争は共和国だけでなくアジア全体、オイルラインに頼る日本には死活問題以上である。
加えて共和国有数の産油地で、同国国家予算の多くがアチェの石油・ガス輸出で賄われている。
アチェはこの富の大部分を地域還元せずジャワが利用しているとの強い不満が長く鬱積している。加えて古来からアチェはジャワ島より距離的にもマラッカ海峡を挟んだ周辺地域との交流が深く、独自の文化習慣を堅持し、管理者ジャワよりすべてで上位にあるとの信念がある。
歴史的にも、オランダ植民に最後まで屈服せず、30年以上も独自で戦った誇りがある。
強いピュアなイスラム地域であり妥協しない。共和国はそれへの畏怖、同じイスラムでも文化的な異なり(麻薬や武器携行など)、独立時から首都ジャカルタとジョグジャ王国と同等の特別州の一州にした程だ。
アチェの住民投票が実施され、若く活動的な分離独立派の働きかけで、それを怖れる無知な農民が過激な独立票を投じれば、冷静に長い将来より刹那的な地域エゴともいえる選択が勝利する。
ビネカトンガルイカ(多様性での統一)が国是ならば、アチェは明らかな共和国員である。
東チモールと同じではない。誰にも過去の不満はあるから、アチェがデモや騒擾によって権利を得れば、インドネシアの分裂は一挙に進行して国土は分離する。
どのような形にしろアチェを共和国に留めおくべきだろう。


◆ 日本は1997年度で20万トンのタンカーで約1,400隻分2,670億gの原油を購入しており国民一人当
り2,225g(酒大瓶で1,236本)。このうちの82.3%は中東原油で、全てアチェ沖のマラッカ海峡を
通り、ここを通らないのは中国4.7%、メキシコ1.5%、その他5..8%(ロシア、ベネズエラなど)とな
っているが、アチェ付近やカリマンタンで採油されるインドネシア産の輸入は5.5%、インドネシア絡
みの石油は日本の液状化石エネルギー石油化学製品原料の87.8%となる。
一方、日本の備蓄は1998年実績で約163日分(官民合わせて)。5か月。ということは実質3か月し
かない(タンカーの往復、loadingに2か月はかかる)。
アチェが独立運動を激化させる場合、当然インドネシア政府を困らせる動きをするだろう。
マラッカ海峡に機雷を敷設してオイルルートを遮断すれば、即日本や他の東アジアの石油大消費国か
ら「アチェの独立を認めてやれ」という圧力がかかるだろう。
また、リアウ州も機雷を撒く可能性がある。こうしてマラッカ海峡は航行不能になりタンカーだけで
なく漁船や中東、欧州向けの日本製品を積んだカーゴ船舶が通れなくなる。
スンダ海峡、ロンボク海峡があるじゃないかと考えるが、メラク、ロンボク海峡周辺は急進イスラム
の拠点で、アチェに呼応してゲリラ的行動をとる可能性は否定できない。
去年から今年にかけて暴動が発生した地域はすべて海運にとって重要なところばかり、アチェ、サン
バス、東ジャワ(忍者事件)、ハルマヘラ、アンボン、東ティモール。

各地方の分離運動は激しくなるだろう。分離独立しての将来より、ジャワの頚木から脱したい感情が先走る。細分された地方国家は資源人材経験から世界参入は至難でインドネシアは分解する。国家統一の維持には広範な地方自治拡大から相互扶助のゆるやかな連邦国家になりうるか。

 
 
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