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6 氏、姓、名前

 人の識別やアイデンテテイの確立の為に氏名が使われる。
特権を享受する為や威圧、差別も絡んで姓名以外の肩書きと称する奇妙な追加も行なわれる。

 インドネシア共和国は'多様性のなかでの調和'が国是だから何が表れようが驚かず、あるがままに調和するかのようだが、単一国から来ると、その多様性に眩しくなることがある。
名前もその通りの一筋縄ではゆかない多様性がある。
独立の父初代大統領スカルノ、第二代建設の父スハルトは、その一字が姓名で他はない。
なれ親しんだ姓はなく、それだけだ。
そうかと思うと'多様性'はあざ笑うかのように、名詞を貰って愕然とする。
大統領のXX息子トミイ氏の花嫁は Ray Ardhia Pramesti Regita Cahyani Soerjosoebandoroとじゅげむみたいな長ったらしい名前で、何でもジョクジャのやんごとないお姫さまだとゆうが、通称はTataと呼ばれている。
どこからタタがでてくるのか多様性だから門外漢にはわからない。
友人にHaji Doktrandas Ibunu Heryanto Warjinasasmito Kusmaatomajaとゆう方がいるが本人でも覚えられないのじゃないか。普段はヤントと簡単だから改名したほうがいいと考えるのだが。
こうゆうの、もう古いのと言ってもはじまらない。殊にジャワ人は権威に弱くメッカ巡礼を果たしたハジ、いまだに駅弁大学認定のサルジャナ(学士)とか形骸化した家系の称号とかなんとかを仰々しく名詞に刷りこむ御仁は多い。Prof.Ir.R.M.Hが名詞にあれば技術系大学教授でジャワのパクブオノ家の六代以内の出自でメッカ巡礼を済ませたハジであるぞよ、プロフェサアエンシニョールラデンマスハジ誰それとなるが、それが個人の能力と人柄には一致しないから困る。

艱難辛苦の末に巡礼を終えたハジは昔は大いに尊敬され、それなりの人格者だったし尊称を汚すまいと努力したものだが、いまは銭さえ出せばツアー気分で行けるから若いハジも多い。宗教関係にはイマム、ウラマ、ブンフル、キヤイの尊称はハジほどには堕落していないようだ。
 地方によっては独自の尊称が依然として残っており、ラデン(ジャワ)、ダエン、カラエン(マカッサル)オプ(南スラウエシ)アンデ(ブギス)トンク(アチェ)スタン(ミナン)、シャ−、など。また英傑を出した家系は名字だけ聞けば威圧になるが、人口が増えて猫も杓子もニングラムとかトビンになるともういけません。バタック人やアンボンにはこの手の姓がある。バンガベアン、パンジャイタン、ハラハップ、シマンジュンタック、ラトウハリハリなど。
逆にただ一文字でスカルノなどは貫禄さえ感じられる。

 でも国民のなにかのスタンダ−ドがあるだろうと考えたが、地方により習慣により千差万別の多様さでこれといった確定要素はない。
イスラム圏では原則として名前だけだ。家名はない。夫婦別称で揉めている国があるらしいが、此処はそんなのは始めからない。夫婦は当然別姓で夫婦の関連性は名前では判別できない。
ムハマドとかハサンで、ハサン・ムハマドなら父親ムハマドの子のハサンで通常うしろにMがつくだけだ。イスラム名は同名が実に多い。石を投げればアリ、ハサン、イスマイル、フセン、サリムに当たる。此処の人達は識別能力に勝れているのだろう。
マルガ(家名)のある地方では日本のように氏と名を持つことはある。父系の北スマトラ・バタック族は我々と同じに氏と名のふたつだ。
それにキリスト教圏では洗礼名を貰うから西洋風にウイリアムとかト−マスとかテレシアとか。肌の真っ黒なアンボンの娘がマ−ガレットですと云われると対応に苦慮する。
ヤコブ、エミリア、ザカリアと旧約聖書人もいる。司祭か牧師が適当につけたのか。
ケルト人が使う名前をキリストの御名のもとに、思いつきで地の果ての男に与えるから長い間にWilliam が Wilem になってしまっていて、正確に書いたら綴りが違いますと指摘された事もあったから油断とひとりよがりは禁物だ。では呼び名が英語人のようにボブになるかといえば違いウインとかレムと呼ばれているから、どうにでも呼ばせてくれと言いたくもなる。
八月生まれにアグス(August) が多いが、ほかの月の名前を聞かないのはなぜだろう。
アレキサンダ−はイスラムではイスカンダ−ルとなるからややこしい。ではイスラム教徒がぜんぶイスカンダールかといえばれっきとしたイスラムでも名前がアレックスだったりする。
キリストとイスラムは十字軍とか積年の仇敵だと思っていたが共通する場が実に多いのに気が付く。
キリストもジーザス・クライストとかジュセススと言う事が多く、異教徒には始め誰だかわからない。イスラムではナビ(預言者)イサで片ずけらればなおさらだ。
 ジャワの人はべらぼうにSで始まる名前が多い。インドネシア大統領になるにはジャワ人、色男、イスラム、軍歴、頭文字Sでなければならないと云われる。
歴代大統領、副大統領ストリスノも、スピアントもこの条件を満たしている。電話帳はスナルト、スハルジョ、サリモ、ストヨ、ステジョで10センチの厚さになる。
華人は国籍問題もあって中国名を原則として禁止されてしまったが、華人向きの名前でもあるのか、ブデイマン(清潔)とかグナワン(利益)なら後者が彼らに相応しいか。通称はキキとかトトとか子猫のような名がお好きなようだ。

 日本人が大好きとか、その合いの子にサクラとかフジヤマ、サムライと名ずける親がいる。コマツ(ブルド−ザ)は知っているがトヨタにはまだ会えない。たぶん父親がプロジェクトでコマツの機械の世話になったからだろう。
地方には面白い風習があって日本の太郎次郎のように生まれた順で名前が確定するバリなどに例がある。ニョマンは男子三男にクトウットは四女に。
ニョマンが固有名詞には違いないが、呼ぶとレストランの客の多くが振り向くから実用にはなり難い。

 さて馬鹿馬鹿しく長ったらしい名前をカットするだけではなく、親しい間柄でなくても本名を使わず、シンカタン(単略)で通す。先程のタタのように。
Otto Iskandar Dinata とゆういい名前なのに頭文字だけとって Otista 、エヴェリンはエヴァ、アングライニはアン、マリアンナはリナとかスナルテイならテイだ。
それが高じると呼び掛けや話言葉の中に一字だけ名前を入れて「 Mari nah いらっしゃいマリアンナちゃん」と使われる。ナだけが残っている。「Bukanlah toh?違うでしょト−?」のト−はスデイアルトのトだと気つくのに時間が要る。
 ここではわたし(Saya) を使わず自分の名前を使って三人称で会話する事が結構多い。「私は行きます」を「リタは行きます」とゆうように。
偉い人が長い話にこれを多用されて自分の名前を三人称で話されると、同性の人が他にいる錯覚をおこしてしまいそうになり必死で聞く。

 我々は自分の名詞を作るのになぜかガイジン風に名前を先に姓をうしろにする。そんな迎合をするのは日本人だけだろう。周恩来や毛沢東をひっくりかえすだろうか。名前を先に書くなどとゆう決めはないから、場合によってはいつも名前を使われてしまう。
日本ではビジネスではよほどでないと名前は使わないし発音も違うから、呼ばれても自分ではないような気がする。しょうがないので名前の頭文字Tだけ刷ると今度はそれも含めて使われる。姓の頭はIだからTiとやられてこれも自分ではなくなる。
広い世界はキリスト教系白人習慣だけではないのだ。
いまは日本式に姓を先にぜんぶ大文字で、名は小文字で入れているが。

ことほど左様に、ひとつの共和国でも統一性がない。凄いとゆうのかさっきでた多様性とゆうべきなのか、混沌とゆう言葉がぴったりの気もする。

 
 
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