慢学インドネシア {フィクション}
 
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1 女中スリ

わたしの名はスリ、スマランのずっと先の生まれです。兄弟は六人いましたが、その半分は赤ん坊の時亡くなったので今は三人です。お父さんは毎日胸まで水に浸かって海老を捕っていたせいか、体をこわしてしまったので、私は小学校に一年行っただけでした。歳は十七才くらいと思います。

異母姉がジャカルタで女中さんになっていて、わたしも長距離バスに初めて乗ってこの街に連れてこられたのがこのお邸でした。だからこの街がスマランの倍以上あるのは知っていますが、ほんとはそこの前の道までしかしりません。

お邸のソピール(運転手)サリモが言いました。奥様がお前の名前を聞いて皆んなで笑っていたと。この前の女中がワルテイ(悪い)、今度がスリ、下男がシロ(Silot)とポチ(Puji)だと。私には何の意味だかわかりませんが、スリとはジャワのお姫様の名前なのを外国人は知らないのでしょう。

旦那様も奥様も信じられない程のお金持ちです。此処に来るまで私は一万ルピアというような大金は、村長さんと警察の人が持っているのを見たくらいですが、それをいつも厚い束にして持っているのですから。お二人ともお祈りはしないし、ジャワ語はおろか私と同じようにインドネシア語もよく話せないのに、どうやってお金を稼ぐのでしょう。日本人ということです。日本が何処か私は知りませんが、顔がチナ人とそっくりなのできっと中国の一部なのでしょうか。

台所は田舎の家より広く、お皿やスプーンコップなど百以上もあるでしょう。ふたりしか住んでいないのにいったい何に使うのでしょう。生まれてはじめて部屋を貰い、初めて地面より高いベッドで寝ました。一週間の食費といって六千ルピアも下さいましたから、毎日食べたい時に食べることが出来、ひもじい思いはしなくてすむようになりスリは幸せです。困った事には御主人も奥様もなにを言っているのか解らないのです。サリモは、いいんだ、なんでもヤーヤー(ハイハイ)と答えていればと言ってくれたのでそうしていますが、奥様には私が「イヤ、嫌や」と言っているように聞こえるそうです。

サリモは外人の使用人になるコツを教えて呉れました。
例えばこうなります。

奥様とお友達をトコ(お店)にお連れする時ですが、
「いいお店でお仕立てもお安いし生地もあるのよ。運転手さん悪いわねェ、少し行ったらキリ(左)してちょうだい」 (左に曲がるのだな)
「そこじゃあなくってよ、テイダ(否)、もう少しトルースよ」(真っすぐ行くのだな)
「見本があるとそれと同じに作ってくれるのよ。 テイダ! 行き過ぎちゃったじゃないの。ブルンテイ! おばかさんたら」 (止まるのかな?)
「困っちゃうワ、解らなくなっちゃったじゃない。いやーねえ、カナンだったかしら」 (右になったのかな)
「違うってば! トコシナールよ、前に行ったことあるでしょ!」 (なんだ、始めからそう言えばいいのに) 
「イヤー、ニョニャ」 かしこまりました奥様。

御主人は毎朝へんてこな茶色をしたスープを召し上がります。チナ人が食べるテラシ味噌みたいなもので、田舎の川の色と同じです。豚も平気で食べるので最初は非常に困りましたが、聞いていた程臭くもないし安心しました。そしてダシ(ネクタイ)をしてお出掛けになります。御主人がお出掛けになって少したつと、奥様もおでかけになってお二人とも殆んど家にはおられません。こんな大きな家だから、ゆっくりしていればいいのに。

奥様が家に居る時はボクセン(ランニングシャツ)にショートパンツ、旦那様はアチーアチーといって裸でビールを飲みます。この国がそんなに暑いのでしょうか。人前で、裸同然の姿でお酒を飲むなど、クーリー人夫かベチャ人力車夫のすることで、私は目のやり場がありません。このお邸の人はいったいどの辺りの階級なのかさっぱり解りません。

食べたければ三回も食べられ、隣の女中さんとも親しくなったし、義姉からはミクロレットバスに託して手紙もくるし不自由はありません。奥様が出掛けた後、自転車に乗った写真屋さんに、ソフアに座った私の写真を撮って貰い送りました。カンポン(田舎)ではスリもお金持ちになったと、きっと驚くでしょう。お給料を貰うと、翌日かならず義兄が来て持っていってしまいます。病気の父さんに送るのだというので渡します。私は食事を二回にしても、カルン(ネックレス)と口紅を買うのが夢なのに。

先程もお話ししたように、私はコルト(乗り合いバス)もこない片田舎の出ですから、ここに来てからは珍しいことだらけで、電気、水道、ガス、電話など初めての体験だったのです。電気はとても便利なものですが、痺れるようで好きにはなれません。小さいスイッチを上下させるだけで、竹筒の水のように出たり止まったりするのですが、見えないし、どちらにすれば止まるのか出るのか。

ストリカ(アイロン)もデンキですが、毎日使うのに何で止めねばならないのでしょう。水が捻れば出るのは驚きでした。どっちへ捻ったら出るのかよく覚えた積もりでも、カランが縦についているシャワーでは水を止められない事もあります。ちゃんとしなければいけないと奥様に言われるので、電話がかかってくると私は「お待ち下さい」と受話器をきちんとかけて奥様をお呼びしますが、相手の声が切れてしまうのです。奥様に何回も注意されますが、受話器を置き放しにするのは整頓しないと怒られそうで、私にはなかなか出来ないのです。

ガスでは奥様がとても大家の人とは思えない大声で怒られたものでした。ガスを消してと言われたので、私は口で吹いて消したのです。臭いは別の場所からだと思っていたのです。ガスも見えないので困ります。便所が詰まってしまったのでジャガ(門番)に言うと、放っておけというのでそうしたら、本当に詰まってしまって臭くなり、奥様が知って大騒ぎになりました。

生まれた時からスリは川で用を足し、身体を洗い、歯を磨いていたのです。川は決して詰まるような事はありません。習慣はなかなか治らないものですね。奥様はいつもニコニコして、イニイニ(ここ、ここ)と言って食卓を何回でも拭くのです。見えないような埃があっても、イニイニといって磨くのです。ラプ(布巾)も驚く程種類があって、拭く場所によって区別されているらしいのですがどうしてもそれが解りませんから、何か言われても、いつものようにイヤーイヤーと言うほかはありません。奥様がもう少し厳しく教えて呉れたらいいのですが、笑っているので命令かどうなのかもはっきりしません。

バジュ(シャツ)やサンダルも買って下さいましたから、私もこの家の家族の一員になったのかもしれないのです。白人やチナ人の女中さんの仕事は、それは厳しい毎日だというのですから。率先して仕事をすれば間違いをしてしまうし、決められた事だけやって余分な事はせず、強く生きるべきかもしれません。

なぜって、庭の芝生が伸びたので、台所のピソ(包丁)できれいに刈って差し上げたのです。あのガーデンボーイは奥様のお気に入りなのですが、ハンサムだけれど怠け者なのです。そうしたら奥様がお帰りになってナイフを見て泣きだしたのです。料理のナイフを芝刈りに使ったと。刃が欠けてぼろぼろになってしまったらしいのです。

切れれば何に使おうと、それがナイフの役目だと思うのですが違うのでしょうか。「ジャパン、ジャパン」と叫ぶのは、ナイフがジャパン製なのか日本式でない仕事なのか、御主人もあらわれて「ミンタマアフ!」(謝罪)と言うので、なんで主人が謝らなければならないのか不思議だったし、悪い事もしていない私に謝れと言うのかどうなのか。

何か小言のようなので、私は「トリマカシ、有難う」と答えたら、前よりも大きな声で何回も「マーフ、マーフ」と言うではありませんか。
もうこの事は考えないようにしています。
「こうゆう事をしてはいけません」
「(悪うございました)すみません。ミンタマアフ」
「こうゆう事をしてはいけません」
「(ご意見)有難うございます。トリマカシ」
私の国では後の方が正しいのです。それに私達はいつも自分の行動を神に感謝し謝罪しているのです。面と向かって人に謝るのはわざとらしく、自分を善くみせようとする恥かしい行為と教えられているのです。

毎日五回のお祈りも欠かしませんし、神も慈しんでくださり、スリはふとって綺麗になったと皆んなが言ってくれます。しかし義兄がどうしてもお金が要るといってくるのが気掛かりです。私達は助け合わなければなりません。信じられるのは家族と村の人だけです。村では鍬や鎌、網も村のもので、それを最も必要とする人が使う仕来りで、道具等はことに自分の物といった観念はありません。強いて申せば自分の所有物は着ている着物位です。みんな村のもので、共同し協力し援けあうのです。

ゴトンロヨン(相互扶助)というではありませんか。だから「これは私の物」だとか、「人の物を黙って使った、断りも無しに」といった言葉は聞かれません。だいたい財産などというものは、本来、神が一時その人に預けられたのであって、全ては神の御意志であるのです。持つ者は持たざる者に分け与える事は、アルクルアン(聖典コーラン)にも明記されている明瞭な契約なのです。人は平等でなければなりません。

使われていないナイフやスプーンが山のようにしまってあります。田舎を出る時、母さんが暗い片隅でバナナの葉に包んだロントンを食べていたのが目に浮かびます。幸せにしてあげねばと心に誓ったのです。この世で最も大切なのは両親です。父母がいなければ私はいないからです。

神に報告して、神の所有物でもあるお皿とスプーンを一時お借りして、お金を取りに来た義兄に託して母さんに届けました。これを今最も必要としているのは老いた母さんで、奥様でないのは確かですから。それに、私はもうこの家の一員で、不意に塀を乗り越えて皿を盗んだのではないのです。 インシャアルラー(神のご慈悲を)

お米は飲み水と同じく総ての人に公平に分けられる物です。私達貧乏人でも、飢えた人には米を差し上げるし、セデカ(喜捨)は宗教上の定められた行為です。当然の事で説明も不要でしょう。真っ白いお米がいっぱい入っていました。いつもそうです。ご飯を炊いてもほとんど召し上がらず捨てているのです。それを盗んだと云われると非常に当惑するのですが、お米の上に奇妙な'の'の字が書いてあったので、米を袋に取ったあと、そのように'ψ'と印しておいたのです。何かのおまじないだと思って。

スリは母さんにもお米のご飯を食べさせようとしたのです。翌朝たいへんな事が起こりました。チュリ(盗み)といった言葉も聞かれて、門番まで呼び出されました。ふたりとも黙って俯いていました。言い訳しても解っては貰えないのがわかっていましたから。門番は何も云いませんでした。当然の事と思っていたからです。

何日か無事に過ぎました。あの日から奥様は台所に鍵を掛けるようになりました。朝四時半のスブの祈りを済ましてから仕事をはじめるのですが、それはもう出来なくなり、奥様の起きる八時頃まで、私はドアの前にしゃがんで待つのが日課になりました。そんな時、スリは田舎の事を思い出すのです。

義兄が来て父さんの具合が悪いと告げ、四万ルピア前金を用意しないと入院させられないと云うのです。偉い先生も病院もお金がかかるし、ドックン(祈祷師)も近頃ではお布施だけでは良い顔もしないし、良いお告げもして呉れない世の中なのです。私は頭がカッとなりました。何とかしなければなりません。奥様はこのところご機嫌が悪く、お部屋で旦那さまと大声でお話になるので、とても前借りさせてなどとはお願い出来ません。毎晩神に祈りました。スリにはそれしか出来ないからです。

奥様のお供でサリナデパートに行きました。お友達とキャッキャと笑いあいながら、なんと三十万もする白粉や紅をお買いになりました。これはわたしの一年分の給料です。両手で抱えられない買物袋を部屋に持って行くように云われて、二階にのぼりました。胸に手をおいてから、その中からほんの三枚だけ黙ってお借りしたのです。

「お前は馘になった」とサリモに申し渡されました。奥様は買物とはうって変わった怖い顔をして、ポリスとか申して、私のビニール袋を検査されましたが、空き壜やボールペンのお土産げは、隣の友達に預けてあったので問題にはなりませんでした。総ては神の采配で、誰を憎んだり恨む事もありません。そういう運命は定まっているのです。

何処ともなしに角のワルン(店)の前に座っていると、前に一度門の前で会った男がいました。
「お前の器量なら、三時間も働けば五千にはなる。仕事も楽だ。うまくすれば、お前もあの家の奥さんみたいな買物も出来るようになる」
五千でひと月働けば十五万、信じられないお金です。
男はわたしに金色のカルンを呉れました。きっと良い人なのでしょう。私はこの人についてゆきます。もう田舎に帰って、暗い隅でロントンを食べるのは出来ませんし、いまは何より私は家の面倒を見なければならないのです。

もしわたしに間違いがあったのなら、お許し下さい。
さようなら、御主人さま奥様、さようなら、またお逢いする日まで、、、。

 

 
 
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