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15 ブアの叛乱 第九章 1

そして誰もいなくなった。 メスが急に何倍にも広くなり風が吹き抜けた。
淋しくも怖くも感ぜず、しかしなにをしていいかも解らなかった。
マセが、野良犬が尻尾を振るようにして近寄った。
「ダエントンポもレオも、サトウも死んではいない」 
「生きている?」
「怪我までは解らないスが、死んではいないす」 
「おまえなんで解る?」
「ムザカル反乱の時きゃ、わたし働いたもんで。カラエンラオに拾われて、此処でこうしてトアンに拾われた。わたしゃあコーデイネイターって役割、安心しなさって、トアンと同じこっち側の人間ですけん」
マセはにやりとしてから、
「人食いの噂にゃあ参りましたが、殺るほうは得意でして、ずっとトアンの番犬やってました。カラエンのお指図で」
「二時間ほど待ちなせえ、段取りだと夕方六時マグリブの祈りを合図に、どっちが勝とうがP3は破壊されると聞いた。その時お望みならサトウを貰う」
下から見上げているせいか、マセの身体が倍の多きさに見えた。
「車を盗られた」 
「足は車だけじゃあない、あっしに任せなせえ」

乾期の終わりを告げてこの日空は雲に覆われた。
そして雨がきた。
じきに雲と地面の間は水が溢れるようにして豪雨が視界を閉ざし、話も聞こえない降りになった。
「神の雨だ。ブア川は水嵩が増す。トアンクボの仕事で橋は落ち、パロポの兵隊は命令されても来れない。あっしに任せなせえ、トアン」
私はレッペとマルチヌスに、
「私が帰るまでメスを頼む。残った荷物を全部ひと部屋に入れて鎖のダブルロックで施錠し鍵は捨ててしまえ。トアンは必ず戻る」
二万渡して言った。
待った。暗くなった部屋で。

セイコーダイバーが六時十八分を指した時、続けさまに凄まじい轟音とともに火柱が宿舎を揺すった。雨の簾のなかに椰子の林がシルエットになって浮かび、消えた。                              
「きつい旅になる。こっちへ」 マセの腰には彼の足より僅かに短いパラン大刀が向きを変えた時ドアの柱にごつんとあたった。
「トアン、得物は?」
昔帰国の土産にと造らせた黒檀の木刀が壁に掛けてあったのを咄嗟に外した。
我々は小走りに道を横切り、小宮山の眠る原っぱを突っ切りマセのあとを追う。
土饅頭にはもう幾筋もの雨の道が川に向かって流れていた。
レッペが手を貸すとそれがカヌー以外の何物でもない頼りないプラフ小舟が草の陰から表れ、流れに抗してロープがピンと張った。左右に太い竹の浮き子が取り付けられていた。
「腕木に掴まり身体を水に沈めて舟といっしょに流されていって下せえ。撃たれても水は弾避けになる」 
なま暖かい水に浸かったが、もう何処までが水面なのか解らぬ降りになっていた。カヌーは流れに斜めになりながら下りはじめた。
マセが何処にいるのか見えないが、川は左に曲がりそして右に折れた。
岸の土手がだんだん高くなってきて河幅は三十米位取水口のずっと上だろううか。
また大きな爆発音がして左手の空がぼんやり明るくなった。
大きく曲がって流れは澱み、舟はほとんど横を向いた。
土手が大きく抉れ、橋桁が川に斜めに刺さっていた。マセが竿を押した。
ジープが原型に近い形のままこれも斜めに半分水没し、タイアの焼ける焦げた臭いが鼻をついた。マセの竿先にヌーッと人体らしい物体が浮き上がった。
魂に捧げる祷りの言葉を諳じていなかった。マセは物体を無造作に突き動かした。
カーン! と撃たれて、ずぶりと水に潜った。
不思議と当たる気も死ぬ気もしなかった。
「シアパ イニ誰だ!」 ビームライトが水面を舐めてカヌーの鼻を捉える。 
「マセだ」 でかい声だった。その方がいいと思いもう一度潜った。
土手を滑り降りてきた数人が舟を引き寄せ、私はどうしたらいいのかマセと小声で呼んだが返事はなく、身体が冷えたのか小便がしたくなり、そのまました。
暖かいものが股を伝わった。
「 シニ こっちだ」とか「 アワス 気をつけろ」とか人数が増えたなかに、佐藤が二本の竹棒で挟むように結わえられて運ばれてきた。
「佐藤!」 
ビニールシートに全身を包まれたサトウは、ちょうどカヌーの幅いっぱいに収められた。左をやられている、と誰かの声がした。
「センパイ」 
土手の上からトンポがP3の炎を背にして、表情はわからないが両脚を開いて、'すっく'といった表現で呼んだ。
「パロポだけでなく、マリリニッケルも立った。同志シャリフデインの働きで守備隊も同調した。ハサヌッデイン空港も発電所制圧も時間の問題だ」
「戻れない道を往くわけだ」 
聞こえるような声は出なかった。
一瞬に輝き、栄光のなかで死んでゆく多くの革命家の物語が浮かび、決めたのならそれまでの生命を燃焼できるのはむしろ幸せだ。
「マカッサル、ブギスの道はひとつ」 答えが返ってきた。
「死ぬなよ」
「アルハンブリラア、ノルデインもレオも傷ひとつ負っていない。サトウは跳ね弾が腿から腹に入った。盲貫通なら良かったのに残念だ。処置はソンダ先生がしたが早いがよい。 行
け!」
ダエントンポは正確な挙手の礼をした。
「ジェネラルは?」 「ーーー」
私は手を挙げて応えた。濡れ鼠で。
「マンガッサラ、 ウーラーッ!」 歓声と連射が続けさまに沸き上がった。
倦怠と無能のP3の連中のどこにこんな力の結集があったのだろう。
マセはもうサトウの場所を作り、短いマストにロープを捲いていた。
「マセ、これからどうする?」 
「異な事を、マカッサルに帰るんでしょ。サトウをステラマリスにお連れする」
「行けるのか、こんなプラフで」
「行けんでどうする。車がくるまで、つい昨日まで、みんなこ奴で行った」
「サトウ、最後の我慢だ。頭をあげていろ」
佐藤はどこにいるのか、わかってはいまい。
譫言のようにP3が燃えていると繰り返し、何度もしゃくりあげていた。彼にとっては青春の証しが消えようとしているのだ。

パロポ最後の叫びが、この時起こった。
ボイラーにオシタニのではない火が入ったらしく、凄まじい爆発と蒸気が豪雨を押さえて天に立ちあがった。
佐藤を下に、重なるようにカヌーに伏せた。
トタンやら破片が飛んできて川に飛沫があがった。
泥だらけの上体を起こして見回しながら、こんな夢を見たことがなかったかと真剣に考えた。

マングロープの茂みの横に水門があり、マセが開けようとするが、水嵩が増したせいで下にも閂があるらしくびくともしない。
マセの眼くばせを待つまでもなく、息を吸い込み柱を伝って潜った。届かない。
届いたが腕の力では外れない。場所の目星をつけて水中で海老のようにまげて足で蹴った。
どっと水流が起こり身体ごと流され、背骨がきしみ、したたか水を呑まされて咽せた。
「乗んなせえ、夜は鰐が多い。足の怪我はサトウだけでたくさん」マセが笑った。  
エンパン養魚場なのか平らな水面があった。タコの林が遮るように囲っている。どこをどう通るのかマングロープの茂みには細い水路が通じているらしく迷わず進む。
魚かそれかは知らないが時々ばしゃっと水音がしたり、顔を掠めて何かが飛び去る。いちど枝で顔をいやとゆう程叩かれた時は、猛獣に噛まれたと生きた心地もしなかった。
視界が開け、汐の匂いもした。 
「満潮で仕事が早い」 とマセ。
ぼろ布のような三角帆を張る頃には雨は嘘のように上がり、速い雲間に半分の月さえ顔を出した。小舟はぐいっと風下の浮き子を沈め、風に乗った。
飛沫がひっきりなしに細い舟に躍り込み、水を掻い出すだけで佐藤に声もかけてやれない。
背中と腕が痛くもう駄目だ。
風が変わりセイルは反転して舳先が風上に切り上がり、片方の浮き子が宙に持ち上がるほど傾き、せっかくの水汲みも徒労に終わった。
月がかくれそれまで黒く見えていた海岸も消えた。
「よし、マセ、俺が代わる」
帆綱を少し出し速度が増すと、舵柄が浮き上がるので足を使って押さえた。塩水には鰐はいないだろう。
「コッ、ボスもバジャッラウト海賊の流れで?」
「お前よりソルトだ。海人オランラウトだ」塩気があると言ったがマセには通じなかった。
そんな余裕すら出てきた。
マセが手をかざして方角を出す。なにを頼りに位置をだすのか、ついて行くよりしょうがない。
「そうさ、俺は知っているんだ。街じゃあ君のサリーが待っているぞ。濡れて死んだ奴はいないんだ。がんばれ」
塩水か汗かを拭いてやり、ひっきりなしに話し掛けるが額は火のように熱く、呼吸も短い。

二億数千万の金と三年半の労働の報酬がこれか。怪我人と、字も書けない坊主頭と割り箸みたいな舟で濡れ鼠。
人間が馬鹿か利口かは知らないが、人間一寸先は闇とゆう事は絶対なる事実だ。
"雨とおち、露と消えにしわが身かな、
浪花のことは夢のまた夢" 秀吉
今日のことを予期できなかったから、明日のことも解らない。解る事は佐藤のあしたを作ってやる事だけだ。くたばったら明日を想うことすら出来ない。
まだ若いのに。出来る事なら代わってやりたい。
また激しく雨が落ちてきて帆がジャイブ反転して波に突っ込み舵は利かない。ヨット用語ではブローチングと言う。マセも浮き子にぶら下がったり奮闘している。余程腕力がなければ波に抗して身体を保持出来ないのに。
もうこれ以上濡れないからいいが、寒くて歯の根があわず、その昔油壷で乗ったクルーザーと女どもを思い出そうと努めた。大きくヒールしてブローチングしたっけなあ。いったいあれは何時のことで、本当にあった事だったのか。
真追手に風がシフトし我々は重労働から解放され、重しとなって舟の後に陣取り風の速さで走ったから舟の上に風はなく震えは止まったが、今度は小舟が重労働を強いられ竹の横桁やマストがミリミリ音を出し、泣いているように聞こえた。いまチョッパーな横風が来れば一巻の終わりで為す術はない。
人生では祈るよりほか手立てがない状況があるが、今夜はまさにそれだった。
しかし私にはどの神に祈ったら叶えてくれるのか知らない。
そんな男の気紛れな願いは神様でもことわるだろう。
緊張しているから眠くも怖くもないし泣けも祈りも出来なかったが、そのお方のお力で距離は想像以上に稼いでいる。うしろに飛ぶ波頭でスピード位はわかる。
穴ぼこ道をよたよた走る陸の乗り物とどっちだ。
うっすらと夜が明けはじめる。パロポの空も、マカッサルの空にも、将軍にもトンポにも平等に。ステイムラン中尉の夜は明けない。岩佐も千葉も久保にも。
陽の光は味方だ。低い位置からまだ濡れた大気を通して光線が帯状に見える。
気持ちも落ち着く。 
「マセ、アラニャブットウール方向はいいな?」 
「ヤア、ブナール」

海面よりもう一段濃い黒い岬を迂回すると、そこには絵のような入江が抱き込むように広がり、平和と風を交換したように風は止まり、砂浜まで一時間以上かかった。
岸にはこれと同じプラフが三隻繋がれ、我々を認めた男がニッパ椰子の部落に消えるのが見えた。 
マセは部落に入ったまま出て来なかった。鶏が鳴いた。
無人ではないだろうが人影ひとり子供も表れなかった。
疲れと焦りが時間を変えてしまうが、セイコーはきっちり四十八分経過を教える。それにしても静かだ。
波の音ひとつしない。
また鶏が鳴いた。
なにかの喚声があがった。マセを囲むようにして男たちがあらわれて真っすぐこちらに来る。
あまりいい状況ではないと分かる。そこの空気に張りがある。
「困った事になりました」 マセらしくない。
「カネならある」 
「金で済めば、たぶん駄目でしょう。 どうします?」
「どうしますって、何を?」
「実は、馬車は貸すっていうのですが、村長が通さないって言い張るのです」
村長だけでなく、男たちも通さない顔だった。小柄だが赤黒い痩せた身体に短く腰巻きを巻いていて、上目ずかいで無表情に私を見詰める眼に独特の迫力があった。もう何か決めている。こうゆう顔は札びらは紙屑と同じだ。
「おかしいじゃあないか、馬車は貸す、だが通さない。なにか欲しいものでもあったら言え」
「いや、それが村長は、オランジュパン日本人だと知ると顔色が変わり、絶対駄目だと。昔の大戦の時、日本兵が此処へ来たと思って下さい。米や鶏を徴発したと思って下さい。その時いざこざが起こって、村長の親父とあとひとり殺されたと思って下さい」  「ーーー」
「それから此処へ来た日本人はトアンが初めてで、村長はバラスレンダム、仇を打つと息巻いています。それでなくては村長のシリッは消えません」
「またシリッか。やりきれん」 老田の二の舞だ。 
男には暮らしにくい土地だ。
「馬車は用意する。死人を乗せて何処へでも行きたい処へ行けと言われました」
「出来るわけないだろう」
マセのうしろの刺すような視線を避け下を向いて答えた。
「もっと南に行けばシンジャイに出ますが、軍の駐屯所があるし、なにせ遠い」
ニッパ椰子の小屋から男達が湧いて出てきて、真ん中にサロンを肩から垂らし、頭に竹の細い皮で鉢巻きをした四十がらみの男がいた。村長なのは一目で分かった。
「ブギスのやり方で、一対一で、と言われています」
あまりの出来事に何の恐怖心も闘志も湧かない。
ブギスの神が生け贄を運ばせたのか、馬鹿馬鹿しい、まるで戦国時代だ。江戸時代までもいっていない。
「マセは手伝う事は出来ません。しきたりです。村の男達も同じです。シリッですから。やりたくなくても、向こうはもうその気です」
男は両膝をつき、両腕を耳の脇まであげてお祈りのような仕草を繰り返している。マセは腰の大刀の紐をほどき、渡してよいものか私を見詰めた。
わたしは後ろ手でカヌーの中を探した。木刀に触れた。
どうせ逃げられない。もう一度向こうを見て、いっそ飛び込もうかとも思ったが相手の出方も分からず、その勇気はとても無かった。
儀式だけで済めばと思った途端に胴震えがして止まらない。謝る事も考えたが、袋叩きにされるのは、いくら私の知らない日本兵の身代わりとはいえ情けない。
先方はそんな選択にはお構いなしに、声に出してなにか言いながら、サロンを左腕に巻きつけ、パランを一振りすると皮の鞘が飛んで中身が表れた。
マセのやつと同じで錆びてはいるが、牛でも人でも使い勝手は同じだ。
どうしようもないので私は立ち上がり、左手で素振りをくれた。重くはないが身体が細かく震えて止まらない。
村人がサッと左右に別れたので私は諦めた。    

 
 
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