
16 ブアの叛乱 第九章 2
息を吐いて太陽の位置を確かめた。幸いそれは海から照っていた。
村長は太り気味の骨太で、重心が低い。頭、鼻、肩、造作がいかつい。この手の男の力は滅法強い。組み合ったら十秒はもたないが動作はたしか鈍い。
まだ二十米は離れていたが、男はがに股で足場を固めて腰を落とした。これが遊びなら汐招き蟹とそっくりだった。
わたしの視界は白っぽく変わって周囲が見えなくなってきた。
二十五年ももっと前、毎日稽古させられた記憶は泳ぎと同じで忘れない。脳の指令なしに動けることだけ祈った。
震えようと震えまいと、私は右手を添えて高青眼に構えをとりながら足の親指の感じを確かめた。幸いカヌーの中で靴は脱いでいた。
男は野豚でも追うようににじり寄りながら五米まで近寄った。尻が引けているから前後の動きは俺の方が速いが、地面が砂だから動いた方が不利になろう。男の片手剣は間合いを大きく変えられるが二の刃は苦しい。いくら力持ちでも返す刀の重さは倍増する。私が見切る以上に彼が強力なら、それで終わりだ。振らせようと思った。振ってくれた。まだ離れているのにブンブン振ってくる。
少しでも堅い足場を探しながら眼を細め、彼の顎の下に視線を定め半歩左に封じた時最初の打撃が木刀の先を掠めた。威嚇にしても手が痺れるように強力だったが、それで私は彼の手の内が飲み込めた。
持直しながら左八双に間合いを詰める。横殴りの打ち込みだったがまだ距離がある。はじめて村長の眼を見る。
右に踏み込み誘って振りおろす。
フユッと喉を鳴らして切り返してくる刹那、斜めに寄せて小手を切り上げた。
僅かに手の甲に切っ先が届いた。
パランは左に流れ、返す刀でその左を叩いた。今度は物打ち二寸で鈍い音がした。県大会ベストフォーの得意技があっけなく決まった。
彼は飛び下がったが波打ち際でバランスを崩し、肘が体から大きく離れた。小股二歩を詰め、私は腰を沈めながら右腕にしたたかの打撃を見舞った。
どっと汗が吹き出し木刀を持つ指の感触も失せていたが彼の刀は波に洗われていた。
彼は恐怖の形相で腰を屈め、左手でクリス短刀を探すが柄が右を向いていて抜けない。
勝負はもうついた。
「ラチュン! 毒」
マセが叫ばなくても知っている。クリスに毒を塗り込めるのは。私は迷わず的の大きい水月を狙い、身体ごと突きを入れた。外れるはずはない。
片腕が利かなければ身体は動かないものだ。
私だってせいいっぱいの興奮で足が流れそのまま倒れ込んで転倒してしまった。
男たちが一斉に駆け出してくるが、もう私にはなにも出来ない。
木刀が波に洗われ足に当たったが取る気も、取る気力もなかった。
村長は苦痛で平家蟹のような面相だったが気絶はしていない。急所が外れたのだろうが、もうどうでもいい。村人に救け起こされて私を睨み付けた。気の強い人だ。
私は ベスト チョッキのポケットから赤いスイスナイフを取出し、少し惜しいと思ったがニッと作り笑いをし、痺れる手で差し出した。何か言おうとしたが喉の唾が一滴も残っていなかった。眼に塩水の滴が入り沁みた。
小さい馬は痩せていたが馬車にはいろいろ積んであった。椰子の実、干し魚、バナナ、葉っぱに包んだ飯、荷台に厚く草が重ねられていた。括ってあった二羽の鶏は放してやった。イスラム帽で正装したらしい数人が軽く会釈してから、「
スラマット ジャラン 道中ご無事で。
恨みは消えたと村長の言葉。 ピソ ナイフは二人の タンダ ブラニ 勇気の印。帰る時また此処を通ってくれ。待っているから」
いい気なものだと思ったが、どうしても受け取らない濡れてしまった七枚程を握らせた。
ひどく長い時間と思っていたが、平家蟹に会ってからでも二時間はたっていなかった。
マセはにやにやしてしきりに首を振っている。
「サムライとは知ってましたが、あれほどとはね」
そう言いながら、腰のパランを器用に使って椰子の実を削ぎ、穴を開けて差し出した。普段は青臭い味で好きではなかった果汁を一気に呑み干し、もう一個催促した。
堅い実が、まるで自分の頭蓋骨を持っているような気分だったが、ハイネッケンでもこれ程の味ではなかっただろう。
佐藤の口にも近ずけたがマセは諦めた。果汁は頬を伝ってこぼれるだけだったから。
痩せた馬に鞭をくれても速さは馬が決めていて変わらない。マセの古いシャツがどこぞの国旗のようにはためき、彼の裸の脇腹の傷が馬車が揺れるたびに伸び縮みした。
わたしのシャツはごわごわで、気持ちも同じようになっていった。
「マセ、俺たちは何処へ行くのだ。此処はどの辺りだ?」
「行く先はステラマリス病院、此処はワジョの西シデンプンの村まであと少し」
眠くもない、腹も空かない。佐藤の頭を保持していてもひっきりなしに汗をかき呼吸も荒く言葉もない。
馬車は竹林を進んだり崖の断崖の細道を辿ったり、松も生えているから高台なのかいくつもの岡を越えた。ひなびた集落が道に添って数軒並び、マセはそのなかの縁台に座るイスラム帽と土地の言葉で話し、また鞭をくれた。
橋のない小川を渡り小高い山裾をまわると、いやな臭いが鼻をついた。屍臭だ。
これは死体を焼く臭いだ。
マセはこわばった私の表情を一瞥して、「皮を鞣す工場」とひと言。
「カラエン親父もお待ちです」
皮工場は'元'の字がつく。写真でしか見た事のない現実がそこにあった。
汚れたランニングシャツと弾帯を着たパルチザンが、本人より高価なオートマチックを二の腕で支えて、吸いかけ煙草を放り二本指でマセに挨拶したが、マセは無視して関門を通過する。
明らかな野戦基地とすれば、昨夜の決起との関連は? 今朝の立ち回りより極度に緊張した。
生命への緊張ではない立場の緊張といったらいいか。
まさか国軍相手では大関と序の口だ。無謀を通り越してトンポと同じく先のない自爆行為でしかない。権力に反逆者のレッテルが貼られるだけなのに。
馬車が侵入するにつれ広場には、私が見た事もない新品の兵器を組み立てたりしている男たちの姿が増えて、これはベトコン規模の野戦基地だろうか。
「よう、来たな」
「バパカラエン!」
「前から言っていたろう、オープンフェスタには出るなって」咆哮にも似た大声で笑った。
ラジャデインはTシャツに南部の作業ズボンとワークシューズ、シャツにはビキニ娘とサマーバケイションインハワイと染めた、およそゲリラの統領に相応しくない出で立ちだったが、突き出た太鼓腹はホルスターの止め金いっぱいで地位を示していた。一段高いテラスにあがって中を覗くと、私の見知っている顔、髭のタカラアの郡長、バンタエン、ブルクンバの長老が壁を背にして居並んでいた。
佐藤が若い者に担がれて裏に消えるのを見送りながら、「ピクニックにしては派手だなあ。汚れるだけ汚れて。
ラグビーでもして来たのかマルワでも逃げだすなあ」
笑う度に横腹の銃身が揺れた。
「パロポのクンバン アピ花火大会のニュースはその日のうちに届いたよ。マセと海に向かったのもついでに知ったから待っていた。そこまで汚れている情報には欠けていたが」
「SSBはレオが目の前で破壊したのに、何でそれを?」
「だから文明人は困る。コミュニケーションは電波だけではないぞ、伝書鳩とか狼煙とかあるだろう。儂のは'人の口には戸はたてられない'をリファインした、云うなればエージェントだな」
このままでは、これから幾人もの死者が出る決断にも、戦うのが愉しいのか、至極上機嫌で続けた。
「昔は度胸だけだったが、近ごろは道具がなければ相手にされない。コレクションに時間がかかったがストアが開ける程ストックした。海の向こうにも親友もいるのでな。
こういったプロフィットがないゲームにゃあ、ジャパンは頼りにならない。カミカゼスピリットが懐かしくなるよ。君のジャパンはなぜかころりと女性王国にかわったが、此処におられ
る同志諸君も儂のように世に出たら独立戦争、それから15年毎に血を見てきた。男の子が授かったらこれでよしと戦場にいったものだ。自分の意志の半分は残る。君の国で謂う生まれ変わりだ。インドネシアイスラムにもローダドニアって輪廻の考えがある。だからマカッサル人は女好きなのかしらな。戦う以外は寝ている」
まわりの空気がざわめくような小波がたった。
「なにか喰うか」
若者が奥に消えて、私も親爺の指した部屋に移った。
廊下から見える部屋にはレシーバーを耳にした二人の男がダイアルを操作していた。これは本格派だ。
若い者が皿にナシ ウドウック田舎飯を山盛りにしたのをがっついて手掴みで口に運んだ。部屋には茣蓙しか敷いてなかったが、英語でない船積みマークが黒く書かれた木箱が天井まで積み重ねてあった。
私はそれに凭れて坐った。親爺は持ってこさせた藤椅子に久しぶりで付けた腰の物で座り悪そうに坐り喋りはじめた。
「動物に喧嘩はつきものだ。高等になると縄張りも出来てくる。よけいに喧嘩が多くなる。
進歩した人間社会は投票と議会政治で事を運ぶが、それは決め方の極く一部だし、決めたからと申しても、多数と強者の言い分が通って少数は泣き寝入りだ。投票政治も共通のコンセンサスで成り立つ。アメリカの大統領は日本人は決められない。こんな簡単な事がアキヤマのいるスラウエシなのだよ。
スラウエシの事をジャワが決めようとするのがそもそもの間違いだ。我々は古い人間かもしれないが、諦めて暮らすよりは決着をつけるほうを選ぶ。勝ち敗けは考えない。
敗ければ投票で敗けたのと同じ、やり方が此処流の違いだけで、また時期が来れば同じ方法でやるだけだ。
弓矢の時代はずっとブギスとマカッサルが噛みあい、オランダに大砲で噛み殺され、君の国は喧嘩する前にいなくなって、毛色が同じだから嗅ぎあっていたのがリパブリックインドネシアだったが、狐だとわかった。
生命はさっき申したようにあまり重要な要素じゃあない。反対しないでくれよ。あんたの国が投票するようになったのもついこの間の事だろ。
利害が異なり、欲の皮が厚くなると、話し合いは時間の浪費だし、我慢とか話せば分かるといった消極論よりも前進、戦えの積極論が、そんな場面ではアッピールするものだ。この国も言葉の魔術が横行している。'指導された民主主義'それだと今の政府が指導し、それに異を唱えれば反対分子になる。インドネシアの資源は総てジャワ以外の外領にある。そして最大
種族は何もないジャワ人だから、一人一票の決まりじゃあ公平は期しがたい。儂もジャカルタヒルトンで女の尻ばかり追っていたわけじゃあない。そうエド時代の仇討ち、そうなんたっけクラノスケだって煙幕に女を使ったろ。この不公平をスマトラアチェやパダン、マルクアンボンの有志と話し合った。独立の時だって地方に多くの国が出来た事も話し合った。
「インドネシアはひとつ」のアッピールは、スカルノが少しでもインドネシアの名前で白人から権益を奪いたい一心で言った事だ。幸い成功してインドネシア領は旧オランダ東インドで独立したがそこには政治的な区割りで種族文化の考慮のひとつもない。地方自治を復活させる共同体国家が一億五千万の住民が一万数千の島々に住む世界最大の列島国家のあるべき姿、ジャワの小島の連中の言いなりにはなりにくいいとゆうことさ。インドネシアはまだビ
ハインドだ。いま基本体制を造らなければきっと後悔する。
ジャワに権力と富みが集中してからでは余計に多くの時間と犠牲が出る。国を思う気持ちも時と采配でどうにも変わるのだ。鉄砲持ってる千人より素手の一万人が勝つのだよ。
殺しきれんからね。勝ちたければアトムしかないだろう。
再出発は四十日、一万人がヤスクニか。隠しても世界の情報もはいるしね。ユナイテッドステーツオブヌサンタラ」記憶はその辺までで、そのままのピクニック姿で佐藤の容体も聞かず、飯の礼も言わず昨夜の闇に戻るように眠ってしまったらしい。
がばりと跳ね起きると忘れていた体の右側、中尉の拳骨と中尉に飛ばされた、ポーチから転がった、水門で回転した場所の記憶が蘇り呻いた。
そっと態勢を立直し時計をみたが夜光は死んでいた。
ジッポも濡れていたし、第一眼が開かなかったので、もっと重大なダメージがあるのかと一瞬どきりとしたが、眼は塩水が乾いてくっついただけだった。
ランプの灯りを数人の頭が囲み、壁に十数人が眠っていた。
ラジャデインがどこからとも表れて、いやいやをするように眉を寄せて言った。
「足は二本あるから一本捨てればいいが腹のほうがな。
どうせ海につかったのだから、気絶しても塩水治療をすればよかったのだが、マセも文明人じゃあ無理としたのだろう。傷は壊疽になりかかっている。暑い国だからこれからは時間との戦いになる。うまく行くとは限らんが止めても無駄だし、道中のことはマセに任せた。
昨日点に火が付いて導火線のように線で走る。いまはまだそんなところでそのうち面になるが、儂等の線はまだチャンバの峠までだ。それから街まで多少の段取りがあってな。ゲリラなら夜が似合いだ。いま出発すれば儂のキャデラックだと峠は昼間下ることになり、ワルダルモノの旦那にもなりかねない。トアンサトウの手当てもいれて、お出ましは朝にせい。街ではまた眠れないかもしれないからな」
消毒剤だと言ってボトルを投げて寄越した。カナデイアンだったが喉に沁みて飲みくだせなかったが、イスラム教徒の真ん中で恥もなくアルコールの世話になった。ワルダルモノの事まで知っている人に意見は出来ない。ゆっくりもう一度横になった。今度は眼が冴えて眠れないが、起き上がる気力もなくボトルに手をのばした。
親爺のキャデラックは、塗装が剥げて元の色が何色か不明のトヨタピックアップらしく、ヘッドライトは片方だけで左は盲人の眼のように穴だけだった。ドアは他の用途に供されたのかふたつともない熱帯仕様、タイアはとうにコードが露出し、白いオイルのあがった煙を吐き出し寒いのか震えていた。
大丈夫ですかと聞くわけにも行かないが、馬車があったらそっちをとりたい。
「マセが保険だ。離れるんじゃない。運は平等だがガイジンには有利と聞いている、とでも思っていろ」
マットを敷いた荷台に佐藤が横たえられ、上体をキャビンの背に起こしてやや持ち直したようだ。
「さあ行くぞテインギ、根性持てよ、甘ったれるなよ、少しばかりの傷で」
「すみませんボス、迷惑かけちゃって。僕は眠っていたのですか」
「ばか、死んでいたんだ。それが生き返ったんだから二度とは死なない。ずうずうしい奴だ」
ラジャデインは会話がわかるからこの荒っぽい励ましを笑って聞いていた。
「二時間おきに必ず薬草を替えろ。いまはただジャムウ薬草が喋っているだけだ」
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