慢学インドネシア {フィクション}
 
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20 雲に隠された小島 2
                            
「ボス、ちょっとこれ、これ見てください。何ですかこりゃあ」
ラットの前にあるデプスとノットインジケーターのデジタルが狂ったように踊っていた。意味のない数字が次々にでてくる。
電気と船の相性は悪い。精密機器になる程信頼性がない。塩水は近代文明を拒否するといってもいい。いるかに乗った少女に会うには、ラジオもテレビも捨てて裸になるのだなと冗談抜きで言ったので、最初はこの異常を気にはしなかった。
念の為キャビンに入り配電盤を覗くと、アンメーターの針も激しく振れている。
異常を確かめるまでもなくコクピットから声、「コンパスもです!」
チャートテーブルのコンパスボウルもひどく傾いて止まっているではないか。
位置が出ない。
チャートには三日前までのログが引かれている。
カームになってからは怠けて書いていなかった。鉛筆の線は 5゚28´S 127゚48´E バンダ海のど真ん中をこのまま東へ、夢にまで見たバンダネイラの島々、朽ちかけたオランダのフォートレス、ベルギウムに針を合わせてあるのだ。そこまでの470マイルは平穏なトロピカルシーが続くのだ。
サテナビオン、プロッターブラウン管の乱れた波形は腐った分泌物のような不気味な模様を描きだしていて、異界に踏み込んでしまった誤りをあざ笑う声が聞こえたようで思わずスイッチを切ってしまった。
ブラックアウト?
コンパスが偏差値以上に振れる事はある。鉄鉱石を含んだ山が海底にあれば狭い範囲での異常はあるが電磁界まで、、。 そんな馬鹿な。
予期せぬ未経験で完全に混乱した。とにかく異変には違いない。グラブレイルを掴み身体を保持して落ち着けと声をだしていた。天井を通して器具の触れ合う音、キャビンの湿気か汗かナイロンブレーカーが肌にまとわりつき、名状し難い薄気味悪さが支配した。
ギィッとヘッドの戸が開いて、中から誰かの腕が出てくるような錯覚に捉われてどきっとした。
馬鹿げている、クルー達はデッキだし誰がいるとゆうのだ。ドアは船のヒールで開いたのに。
鉛筆を握り正確な時刻を記入するのが船乗りの基本。セイコーダイバーは何回見直してもその動きを止めていてた。信じられない状況が起こっているのはもう否定できない。
私は手をのばしてボトルをとりバーボンをすすった。
いまは海のど真ん中リーショアはない。じっとおとなしくして状況の変化を待てばいい。スコール雲がその理由なら二時間もすれば終わる。それから考えよう。
まずは落ち着け。頭は熱くなって回転していたが身体は冷えていってスムースな行動が出来ない。眼ばかり落ち着かないで五感が鋭くなっているのがわかった。
ローニンはその身体を幽界に踏み入れたように輪郭を失い、
見えるものは目の前の舵輪と、おぼろげなカマダの姿だった。ガスは黒く低く重く巻きながら視界を閉ざし、うねるように移動している。予想した風の音も波の叫びも聞くことは出来ず、ただ無音。
無音に支配されるように、誰も声を発しない。存在すら疑う、時だけが過ぎてゆく。
いつもとまったく番組が違うのだ。一陣の突風のあとは心地良い戦争になるはずだった。ずぶ濡れになってシートを手繰りながら、口に入る甘い雨水を含みながら海の男を感じられる程度の労働、身体中にシャボンを塗りたくっての天然シャワーも入っているはずだったが、黒い霧が沸き立つようにして新手の塊が船を包み込みながら動いているのに風も白波も雨もなく陰欝さが増している。
はち切れるように風と戦い、波を切り裂く動的な激しさが起こらない。白いセールは敗け戦の軍旗のようにしおれ、時々あらぬ方向の気紛れなブロウでいたずらに船を揺らしている。風には色も姿もないが、今日のは灰色の老婆の痩せた腕で弄ぶ風だ。
プリオクの港をでる前の夜、やめろと止めた、腰を傷めた船頭ムインの話しを、お伽噺と笑ったのを思い出していた。
「ある月夜の晩、凪だし、わし等はすることもなく消えかかった星空を眺めていたと思ってくだせえ。音が聞こえてきたんでさ。歌が。音の方に眼を凝らすと、灯かりがあり、舟がやってくるんでさあ。ゆっくりと。
歌声がだんだん近ずいてきて、はっきりと舟も人も見えはじめて、わし等は息も出来ないはめになったんでさ。
すれ違って行くのは、絵でしかみたことのない尻が高いポルトギス船だったんで。テイアンマストは三本ラヤールセイルはなかったのまではっきりと。デッキではその連中が踊り狂ってました。
どれほどの時間か、たまげて見詰めているうちに船は後ろを見せゆっくり遠ざかっていきやした。灯かりがずっと見えてましたから。それだけの話しでっすが、わし等は確かに見たんでさ、幽霊船ってわけじゃないけど、トアンは答えられますかい。着ているもんも絵で知ってる昔の服が灯かりに照らされていて、、、」
海の上では何があるか我々は何にもわかっちゃいないから止めなさいとゆう事なのだが、バンダの海は科学から最も離れた海、まだそんな馬鹿げた噺は掃いて捨てる程ある。
ハルマヘラには、行かれないまたの世界があるとゆう。
モウリは悪さもしないし助けもしないが、はっきりと人間と同じ、違う裏返しの世界に住んでいるとゆう。
セラム島のアフルウもいる。神隠しとか空中遊泳とかマルベニ材木部のK氏はその体験をよく話してくれた。
耳を澄ますとハルに波があたる音が聞こえる。ピチャ、ピチャ、ピチャ。
波と船が折り合っていない。私はまるくなってデッキに飛び出るとカマダも気付いていて海面を凝視していた。
「汐が動いています」
マルボロの吸い殻を投げると漂いながら早い速度でスターンに流れ去った。
「カマ、海じゃあ何が起こっても不思議じゃあない。スコールニューフェイスか。慌てて何をするってゆうのだ、取り敢えずやる事だけは済ませておこうや」
状況が最悪なのは言わなくても三人とも分かっている。
パワーもなく汐に流されるのは流木と変わらない。こんなに風位の変わる薄気味悪い風はパワーとは云えないのは言わなくても分かっているし、何かしなければいられない焦燥があった。
カマダはラットの横にあるエンジンスタートボタンにとりついたが、「掛かりません!」
と悲痛な声をあげた。汐に流されそれに視界もほとんどゼロ、船を押す風もなく機走不能なら全身麻痺の病人と同じだ。                 
エンジンルームをあけたがいじる必要はない。セルスターターが回らない。
「マグネットがみんないかれている。原因はわからん。このガスのせいではないだろうが簾に入ってからこうなった。モーターもコンパスもマグネットだ。なぜだ」
理由のない不安は恐怖に変わりやすい。私は現実外の言い知れない怖れを表さないのに必死だった。
「ヤンマーアウトは手動だ、電気は要らない!」と叫んだ。
シロットとふたりでヤンマーを運びだし、トランサムに取り付けるのももどかしく始動ロープを引く。
数回して運よく場違いな爆発音をあげてくれたが、ローニンの巨体を生き返らせるには余りにも非力だが無いよりはましだ。機械の音が響くだけでも自信になる。いまはまるで幽界に踏み込んだような非現実な世界にいるのだから。

周囲に何の対象物もないから速度感もないが、心なしか頬に当たる風があるようだ。
「4ノット位で流されてます、ブレンセック畜生」
陰欝なガスの垂れ篭めるなか、全員が見えない何かに眼を凝らした。 
時間は黒い霧が巻くように違った時を刻むのか、方向感覚も、時間の観念もわずかの間に奪われて、不条理の手にもてあそばれている。

◆ デプス・ノットインジケーター:水深速度計 アンメーター:電流計。コックピット:後部操舵席 チャート:海図 サテナビ:衛星航法装置 グラブレイル:把手 ヒール:傾き ヘッド:トイレット リーショア:風下障害物 リーフ:珊瑚礁 ヤンマーアウト:ヤンマー小型発動機


どのくらいたっただろうか、突然、霧の中から霧よりも濃いなにかがポートサイドを動いたように感じた。
次の瞬間、黒い何かは迫るようにガスの切れ目から表れて消えた。
「まさか!」
シロットも見た。ラットを思いきり切ったが舵が利くわけはない。カマダも見た。アウトが狂ったように吠えた。
我々はただガスの向こうにあるもの、確かにあるもの、見えない何かを凝視した。
霧の合間から、まさかが再び表れて消えた。
岬か、干しだし岩か? なんで? なんでここにリーフがあるのだ。なんでここにリーショアがあるのだ!
私は次に起こるであろう恐怖で茫然となった。
ローニン二世号は全身不随の身体を4ノットの汐に持って行かれ、海底に潜む暗礁に激突する。立っていられない恐怖だったがライフジャケットを放り投げながら、
「シロッ、ゾデアック(ゴムボート)、 エマージェンシイ ダルーラット!」 
声が震えていないのが慰めだった。
シロットがボンベを繋ぐと白いゴムが生きものが起きるように形を整えた。

霧はヴェールを巻き上げるようにして、今はっきりと岩場の姿を見せている。
我々三人はハリヤードをしっかり握って、次に起こる衝撃に備えるほかなす術はなかった。
岩と貧相な潅木を凝視している間も、それ以上の悲劇は起こらなかったのがむしろ不思議だった。汐の流れに合わせた長すぎる時間がじんわりと過ぎていった。
「アンカーを目一杯だせ! 底に食らいつかせろ」
カマダとシロットは動いていれば恐さも薄らぐように働いた。
ローニンは視界が開けたてきた水面に、ちょうど糸が切れた風船のように漂い、私も同じような凋んだ風船になっていた。
風船は五十尋の浅い底を掴んだらしく動きを止め、増し錨を投げ終わって、みんな腰が抜けたように言葉もなく座り込んでいた。
無くてはいられずバーボンツウショット喉に流し込んだ。
船も人も騙されたように浮いている。それまでまったく意識になかった四囲の様子が、かすれたヴィデオが回りはじめるように網膜に映りはじめた。
数百米、いまわしい岬を軸にして、とぼけたような砂浜が、日傘になった遅い午後の弱い陽の下にたたずんでいた。

「入江か? 島なのか?」 恐る恐るゆっくり四囲を眺め、自分たちがおかれた現実を把握しようと必死だった。景色を見るのにこんなに努力したことはなかったことだ。
不吉な雲はまだ背景から去ってはおらず、入江を取り巻くようにして立ち上がっている。大きいドーナッツのように彼方に山裾が望まれ、頂上は雲に隠されて時折雷光がきらめいて走る。
砂浜に人影もなく家も見えないとカマダが言っているが、浜の椰子の木は明らかに植林されたものだ。静寂程不気味なことはない。海鳥が舞うか魚が跳ねれば。
どんよりとした重い大気にかすかだが硫黄の臭いがあるようだ。あの山は火山なのかもしれない。 
「いったい此処はどこなのだ?」
「今夜は長い夜になる、陽が落ちる前たらふく喰っておこう、二時間ワッチ、何事もなく朝になるのを祈るのみだ」 ブラックアウトになった液晶インジケーターと傾いたコンパスは意識して見ないようにした。
冷蔵庫も開けられないので、食い残しの飯と缶詰、ドックフードのような味がした。
誰も眠る者はいなかった。話もしなかった。
山合いで光る雷光にはもう慣れたが、夜半浜の方角に灯のようなものが移動したとシロットが言った。大きくなったり小さくなったり、消えてまたついたと言って起こされた。
気持ちのいいものではなかったがそれ以上の事はなく、ゆっくり、ゆっくり時間が過ぎていった。


 
 
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