
23 雲に隠された小島 5
月が昇って視界を青く照らし、少女が持つランプのあとについて石段を登り、案内された戸をあける。
少女はドアを閉めて横のストウルに座った。甘酸っぱい匂いがしていた。ランプの灯心をだすと,薄暗がりにあのムスチーサが長い煙管をまわしながら火にあぶっていた。
「ンガ、わたしはオピウムはやらない」
女は盆の道具を収めてからベッドをまわって、両手で私の耳を挟んだ。ややあってくちずけとなる。
どちらかの腕でわたしの首を巻き、どちらかの手が下を這った。形のいい乳房をもてあそぶ。ため息を洩らし、するりとサロンを脱いだ。
窓から淡い月明かりが射し、ランプがかもしだす女の影が冥界の動きのように壁を動いた。よく立っていられるほど胴がくびれ、張りつめて丸い腰と胸をつないでいた。
かんざしを抜くと長い髪がはらりと解けて、わたしの顔にかかるようにして乗ってきた。腰を落すと、まだ儀式もしないのに深い淵に沈むように導かれ、私は細い胴を軽く支えた。数合、女は唇を求めながら呻き、私は果てた。
小麦色の肌はランプの燭でうっすらと輝き、わたしは想像の人魚の妖麗さを想った。
歌姫はしばらくそうしていてから、立って少女の手を取り彼女と同じ姿にした。
二匹の人魚の黒い影が壁に踊り、少女は恥じらいもせず為すがままの小鹿のような肢体を浮かびあがらせた。
眠ったふりをしていると、川の字に横にはべり、私の手を導いて少女のそれに触れさせた。私の体は眠ってはいなかった。口に含まれる感触、少女は促されるまま向きを変えて私の前に小さい尻を突き出すと一気に硬くなって、ゆっくり行為にはいった。
ムスチーサのあこや貝の襞に取り込まれたかどうか定かではない、思考のない時が過ぎたのか、部屋は朝らしい光に変わっていて、女の始祖が果たせなかったチェンケの実の香りが部屋に立ち篭めていて、ふたりの女はいなかった。眠りか夢から醒めるあいだ、起こった事を考えようとした。先に感触が残っており脳より先に目覚めていた。
けしの実の栽培か、島の収支はきっとあの禁断の実なのだろうか。
煙草に手を伸ばすと、監視されているように戸がきしみ、盆を持った白い肌の女が入ってきた。あわててサロンで下半身を隠す。
ニーッとほほ笑み、飲めとゆう。アーモンドのような木の実が四つ、口に含むと渋い味がして、椀の茶色の液体は生姜湯のようだった。飲む間色白はベッドの隅で見ている。
「おいしい、 Rasanya agak enak 」 と 言ってみてから椀を返した。
色白娘は二回目の微笑を投げ掛けて椀をテーブルに置くと、胸を張るような仕草で近寄ってきた。腕を伸ばして胸の突起に触れた。触れずにはいられない衝動が電流のように下腹部に走ったから。手を絡めても何の抵抗もなしに、足を伸ばしてベッドに起き上がっている私に対座して緑色の瞳でじっと私を見据えている。
そのままのけぞるように倒れこみ私はピンクの乳首に舌を這わせた。
朝の微光とチェンケの香りは、欲情的な動物質な匂いで後退し、そこは脈動している。
真珠貝のような美しさだった。
骨のない軟体動物は脚で私の腰を固定し、ゆっくりと吸引する。ゆっくりゆっくりと、眉をしかめ、いやいやをするような美しい欲情を観察した。
時が過ぎた。両腕を首にまわし、小さく「イカ」と言った。
白い骨のクロスの首飾りを外して私の首にかけた。
マルボロに火をつけ、天井に煙を吐き出した。家やもりが四匹、壁に張り付いて恋を語っていた。そうして少し眠ったようだ。
気がついて、その必要もないのに大急ぎでズボンをはき、シャツに腕を通しながらドアをあけた。
石段を駈けおりながら正気に戻ると、そこに黒い長い服を着たゴンザレスが立っていた。
「おはようございます。昨夜はよく眠れましたか」
彼の采配で段取りされていたのに、それをおくびにも表さなかった。
「客人、ひとつお願いがありまして。今日は日曜日でミサがありますもので、、。
幾日此処におられても、それはお気の済むままですが、今日一日は、どうか船で安息して下さい。此処は忘れてください」
「わかった。それが望みならそうする。船で別れの土産でも整理するとしよう」
「必ず聞き届けてください。お願いします」
「わたしの仲間は?」 「いま呼んでまいりましょう」
「ボスゆうべは、ホント参りましたよ。端から六回ですよ。こんなんなら潮目も電気もこのままでも。太陽が黄色に見えるでしょう」
「ああ、真っ黄色さ」
ゾディアックを操りながら、「しかし、なんだな。接待にしちゃ度が過ぎてると思わんか。俺は昔聞いた事があるが、この島は男日照りと違うか。住民が少なく近親婚を避ける為に、ハルマヘラのバチャン島のような乱交パーテイも元を正せばそれなんだ。
俺たちは久しぶりの種付け馬ってとこじゃないのかとな」
「なんでもいいじゃあないですか」
「相手はもっと切実だよ。近親婚が進むと男が少なくなってくるとゆう。子供さえ授かれば、それが余計に血を濃くして行く。抵抗力も減って、限界を越えると急速に減少につながる。絶海の孤島での婿探し。君ならどうするね」
船に帰り、Tシャツ、紙、ペン、ナイフとスプーン、ゴンザレスが薬と言っていたのを思い出し、あらかた全部を段ボールにいれた。シロットは他人のような眼をしてその作業を見ていた。
「マリアって、並みじゃあないんですよ。抜群。青い眼してて。お先に失礼してウンガロのスカーフのプレゼント」
「やめとけ。あしたでも渡せる。逃げやしない。此処じゃあ一日も一年も同じ。それに今日は来てくれるなと言われている。わけは知らんが、約束は守りたい」
けだるい気分でスイッチを入れてみたが結果は同じ。イアホーンからはひどい雑音で鼓膜が破れそうだった。
クオターバースに横になり、そのまま眠ってしまった。
カマダの大声で眼が醒めた。
「えらいこっちゃ、ボス、見ちゃったんですよ。ひどい! 全くひどい」
「うるさいぞ、何を見たってゆうんだ」
「すみません、ボス、俺、手漕ぎで浜へ行ったんです」
「何? 断りもなしにか」
「ええ、その時はただ、、軽い気持ちで。ミサならマリアに会えると思って。土産を渡したらすぐ帰る積もりで」
「それで?」
「浜から坂を登って右手の崖、セタンが住むなんて言ってた、下の方に椰子の木三本縛った橋があって、そこを渡ってくる男達を見ちゃったんです」
「何人?」
「五、六人かもっと多かったか、もうたまげちゃって」
「要点を言え!」
「男達、腐っているんです。俺、下からじいっと見据えられ、腰が抜けそうになって、あわててに逃げ帰ってきたんです。腐ってるんです、顔なんか、もう眼も鼻も」
「誰かに会ったか?」
「会わなかったと思います。まだ教会の途中でしたから。だけど男達には、、」
「まずいな、ゴンザレスが今日は来てくれるなと言ったのはそれだ。山から帰ってくる彼らに会わせたくなかったからだ。腐っていても、いや、いるから余計にミサには出たいだろうから。我々は隠したい村の恥部を見てしまった。こじれるかもな」
私は抜けるような肌をした今朝のイカを思い出した。
白い肌は紫外線に曝されれば雀斑だらけになるのに、彼女は透き通るように病的な皮膚だった。私はカマダに言うべきかどうか迷ったが、確信はないが事実は事実だ。
「なあカマよ、楽あれば苦ありとゆう。我々が昨夜からした事は、とんでもない夜だったらしい。取り返しはもうつかないようだ。俺もお前も。そうなったら、いい夢でも見たと諦めよう」
「脅かしっこ無しですよ、ボス。続けて下さい」
「そうなんだ、この島はレプラかそれに近い疫病の島なのだと思う。もしレプラなら頻度での発熱、倦怠感。指とかが白蝋化して感覚麻痺、そうして、、」
「止めて下さいよ、脅かすのは」
「紫外線に弱いウイルスだから空気伝染はない。接触感染。接触の意味が昨夜のような事をゆうのか、膿に直接触れることかは知らないが、君の話を聞けば女共も百パーセント保菌者だ。発病は男性が圧倒的に多いそうだ」
「冗談じゃあない」 「そう、冗談じゃない。潜伏期間を措いて、俺もお前も癩病隔離患者、海の上でもう隔離されてるが」
アル中毒や大酒飲みはマラリアに罹らないとゆう。ウイスキイがその病気に効くといった話はついぞ聞かないが、私はグラスにふたつ注ぎ、目の高さに上げてからカマダにひとつ、一気にあおった。カマダはそれこそ薬を飲むようにして。
考えが固まりつつあった。
痩せこけた老人が咳込んだ時、俺は哀れんで見たが、ゴンザレスの刺すような視線を感じた。ムスティーサの阿片の盆ははいつもの習慣で、本来素性のわからない客人にしてはならない接待だったのだろう。
疫病対策で、外領から役人が来ればガンジャの秘密は守れない。一層のこと北スマトラ・アチェ州みたいに人口が多く、それが長い社会習慣で定着していれば、公には厳禁でも裏ではまかり通る。口を真っ赤に染めて噛むキンマには覚醒作用があるが、田舎では常用されているし、ついこの間までは伝統的結婚式の結納品だった。隠す必要になったのは世の中が変わったからで、カスティールの責めではないのかもしれない。粉が無ければ売るものなぞない島は労働力もなく村は滅びる。月いちのチナの船はその為に寄るのだろう。
ゴンザレス村長は袋小路にいる。今朝の事が彼の耳に入ったら、粉の秘守に賭けてくるだろうか。
喋らないと約束してもはじまらない。我々が生きている限り彼は日夜官憲に怯えることになろう。癩病はともかく、ガンジャじゃあ怠け政府でも黙ってはいまい。
この事をカマダに話した。
「アンカーは立て錨にしていつでも揚げられるようにしておけ。四馬力は尻に付けて浜に異常があったら始動させろ。ゾディアックは引き上げて消火器、発煙弾、武器になりそうなものをデッキに出しておけ、シロットもだ!」
私はキャビンに降りて、数年前オージーと古カメラで交換したレミントンショットガンの油紙を破った。一度も使ったことはないがチョッキを着て弾をひと掴み入れた。
太陽が丘の上に落ちかかり、雷の音、硫黄の匂い。
ボートが滑りだしてきて、黒い点がみるみる間合いを詰めて来る。速さからして戦闘体制で花など飾らないのはもう確かだ。
私はデッキに立ちレミントンを横に持ちボートから見えるようにした。飛び道具を使うなら俺も使うだけだ。
漕ぎ手は乙女ではなくその男達だった。
一人の鼻はなく、ひしゃげた唇の上に穴がふたつ空いていた。右の男の右目は垂れ下って口の辺りにそれらしいものがぶらさがっていた。村長の横の舵手の手は袋を被せて腕で舵柄を押さえていた。
わが友ゴンザレスは赤い布で頭を縛っていた。赤布はアフルウのシンボル、お伽話しだとその時は笑ったが、モルッカ近辺の部族は戦いには赤色を身につける。
レミントンが細かく震えたのは俺が震えているからだ。
「用があるなら言えゴンザレス、遠慮なく乗り移れ」
二十米で漂う小舟に怒鳴った。
「お願いしておいたのに、、、。これで終わりでしょう。此処が神に見離された島だとゆう事が、トアン、もうお分りですね。兵隊が寄り付かない事も。トアンもうお分かりですね」 「あぁ」
私は次の言葉を待った。
赤い布とあまり変わらない皮膚、胸が興奮で波立っている。
長い、といっても三十秒くらい見詰め合っていたが、たったそれだけの沈黙を維持していられず、立っているのが苦痛になった。眼が同じ位置になった。
「昔はそれでも、いい暮らしだったといいます。火山が爆発して村が半分になった頃から子供が育たなくなり、挙げ句疫病です。病いの男や歩けない者は谷の向こうに住んで、臭い硫黄の風呂に入るか、あれを吸っているのです」
「ひどい話だ」
「疫病に犯されたら、オピンを吸えば、少しの間天国に行けます。ルチパラの役人に薬を頼めば、いまの生活は破滅です。チナの船も来なくなるでしょう。それでどうして生きてゆけとゆうのです?」
ゴンザレスの眼は光を失い、ほとんど泣きだしそうな表情で、私は答えを探したが気休めでしかなかった。銃を立てかけ旨くもないマルボロに火をつけて、しばらくそれを見ていた。何をどうしろと言っても気休めにしか過ぎない。手を差し伸べる事も出来ない。
谷の向こう側を姥捨て山にして隔離するより外にはないだろうが、俺がそんな知ったようなことを言ってなんになる。ゴンザレスも先刻承知でも出来るわけはない。神は谷のこちら側にいるのだから、親族縁者を地獄に捨てるより破滅を選ぶだろう。
私の考えが当たったからこの後の彼の言葉は言ってもらいたくない。
「トアンが島を離れなければそれが一番いいのだが、お国に帰るでしょう」
「帰れれば帰る。帰さない積もりか」
「長老は、、、年寄りは、、殺してこいと言った」
そして囁くように続けた。
「昨日なら、、。しかし、夕べはまだ客人だったし、ゴンザレスひとりではね」
懐ろから道具を取出し、ごろりとコックピットに転がした。先祖が使ったような旧式の回転短銃で、弾がでるかも定かでない代物だった。
アフルウなら銃は要らない、ブラックマジックがある。
現代風なら集団催眠だ。魂を奪われいいなりになって。
ばかばかしいが、その時は真剣にそう思い彼の眼を直視しなかった。魂をぬすまれて敵わない。
「俺もあんたの言うことはわかる。俺でも生かしちゃ帰さないだろう。だが、俺は粉も葉っぱも実もみちゃあいない。本当はニカの島が何処にあるかさえわからない。機械は全部壊れてしまったからだ。残念ながらそう望んでも、医者もおまわりも呼ぶ事はできない。カスチールの村の場所がわからなければ、俺の話を真面目に聞いてくれる者なぞいない。法螺吹きや気狂い扱いされるのは、ごめんだ。
よしんば粉を注進に及んで、おまわりや兵隊共に十日も監禁尋問され、とどのつまり共犯で豚箱入りはまっぴらだ。此処の野郎のやり方は知ってるだろう。犯人は誰でもいいのだから。それとも銭だ。かかわり合いは御免こうむる」
会話の間は大きく空いた。繋がらない。
「年寄り達の納得は得られない。あんたの耳でも持って帰らなくては。だが戦えない。はっきり言えば勝ち目がないし、したくもない。あんたの理屈を信じられるのは、喋ってもあんたに得はないのは言う通りだ。ガイジンだし。
立場が分かれた以上こっちにもあんたにも都合もあろうが年寄り達の準備は始まっている。あした、あんた方は我々に追われて逃げまわるわけだ」
ゴンザレスは冷たく言い放った。
「来た路は向かい潮、月が欠けねば走れないのを知っているからな」
「あんた方の船は大きい。小回りはきかないが教えてやろう。それに賭けてみればこっちの手間も省ける。運が良くても二度とこの島には来たくなくなるだろうから」
「言ってる意味がわからん。立場が変わったなら弓でも吹き矢でも使ったらいいだろう」せいぜい強気を通した。
謝る立場でもお願いする立場でもないから。
「火山地獄を通れば、満潮の一時間かそこら、もし通れればあんた達は外洋に出られるかもしれない。あんた方も運を試してみな、おととい普通なら死んでたところだったのだから煙に巻かれれば年寄りは喜ぶだろう。そこの水は沸いている。沸いた熱湯だから霧も靄もでない。が、風が変われば生きてはいられない。山から毒の風で島は守れるわけだ」
「あしたの満潮は?」 手の平を立てて二時の太陽を指した。
「フレアーを見たらお芝居のはじまり。二発目が上がったら、沈めるも殺すも勝手にしてくれ。船は動かん」
「年寄りには銃を奪われた、とでも言っておく。船を沈める為夜動きがあるかもしれんし、毒矢を使うのも止められないが、村にはもうその力はない」
ゴンザレスは敵か味方かわからないような不自然さでそれだけ言うと挨拶もなくボートに乗り移った。
ひどく疲れているようで、投げ遣りにも見えた。
「忘れ物だ」
カマダとシロットが段ボール箱を目ったれ男に渡した。「薬も入れた。ストック全部だ」
ボートが離れしな、ゴンザレスは顔をまわし、
「種がついたら丈夫に育てる、義理だ」
眼があい、なぜか胸がつまった。
追い詰められると、神様が頻繁にあらわれる。
私はそのひとりに感謝してから仕事にかかった。神様の手も借りたいからだ。
ローニンを新造する時、希望したボルボは輸入出来ず、中古のパーキンスを乗せた。
時代もののエンジンにはエアスタートのコネクターがあって、勿論使うことはなかったがディーゼルはピストン圧縮さえあればマグネットなしにかかるはず。やってみよう、やらなければ後がない。指程の毒の吹き矢は音もしないしきっと避けられない。四方から射かけられたら銃など鉄パイプでしかない。
嫌がるシロットを見張りに立たせたが、夜が明けるまで賊が来たのかどうか、それどころではない労働が待っていた。
それでも数回シロットから声がし、覚悟をしてデッキまわりを見たが、暗い海面が月光を反射しているだけだった。
「カマ、スキューバのエアボンベを繋げられるか」
「コネクタがあれば、だけどインチねじだから無理かも。しかしやるっかないですよね」夜の闇が作業を妨害した。狭い機関室でふたり一緒の作業は出来ない。体中の汗とほかの水分も、とうの昔に無くなった頃一応ホースが繋がった。
「行くぞ!」
ホースはボンベの圧力に耐えられず、一瞬で弾き飛ばされ腕をしたたかに強打された。
「コネクタがプラスチックじゃあ保たない。ネジ山を切ろう」
「これが駄目だともうエアがない。なんとかクランクが廻れば、一回でも廻ればかかる」ウインチにバイスを抱かせて、気の遠くなる作業が始まった。
満月の輝きも、吹き矢も硫黄の臭いも、イカもマリアも阿片すらもそこにはなかった。
最初の失敗で圧の強さも予測出来た。コネクタさえそれに耐えてくれれば、単純な理屈だ。カマがレバーを握る。
私はボンベのバルブにスパナを噛ませる。 よし!
クランクは重そうに廻った。音が出た。
船が激しく振動した。
ボンベのエアが吹き出すのも忘れて二人ともへたり込んでしまった。
夜はとっくに明けていた。待つまでもなく時間がきた。
ローニンはこれからの道行きを怖れたかのように細かく震えている。
シロットがデッキに立ってフレアピストルを構えた。
ポン! 曳光が弧を描いて湾の上に上がった。
しばらくするとレンズを通すまでもなく砂浜を蹴って渚に浮かべる数隻のカヌーが映った。集めればまだ人手はありそうだ。最初の舟はもう崩れ波を越えている。
ローニンは大きく傾きながら頭を雲の立ち上がる方に向けて波を分けた。人が見ればお姫様の行列だろうが、間違えば次の大きな間違いが待っている。もう止まることもやり直しもきかない。
ローニンの5ノットならカヌーの動きは考えなくて良い。
海水は白濁し軽石がハルに当たる。
スタボー左手にはジャングルが硫黄に犯され枯れ木になって連なり、ポートサイドは直立した岩山がそそり立って、がれ場から噴煙を吐いていた。正に地獄の道行きだった。水路は狭まってきて、もう後ろに迫るカヌーなど考える余裕はないし追ってくるはずもない。
このまま走って本当に抜けられるのだろうか。罠にはまったのではないか。
ペラに軽石を巻き込んだら?
「やばくてもスターボに寄せてください!」
私は黙ってラットを握っていたが、暑さの汗でない汗で手の平がぬるぬるした。小便がでたくなった。
崖の際がひときわ沸き立っている。斜面はぶすぶすと燃えたぎっている。海面からも水蒸気が吹き上がっている。
中腹から上は雲か噴煙で覆われている。
我々は水中眼鏡をかけ鼻と口をタオルで覆った。風が変わったら、皆なキャビンに入り、残りのエアを放出して、お祈りでもしようか。シロットが咳をしだした。 ドーンとゆう響きで身体を縮める。石が、大きいのは崖を転がり落ち、小さいのがぱらぱらと降ってきた。
もう誰もものを言う元気はなかった。数個がゴムボートを直撃しプラスチックが溶けたが手当てをする事も出来ない有様だった。勇気が挫けるのを見せるように萎れて、それを廃品にした。
それがニカの最後の贈り物になった。
振り向く余裕がでた。
灰色の巨大な茶筒は、あの日と同じに島を隠して空に立ち上がっていた。雲の峰の積乱雲の頭が崩れ、オレンジ色に太陽を反射させていて、生きた怪物に見えた。
セールを揚げられる風がでたが、スピンを揚げる体力も気力もなかった。
三時間か、コンパスがぐるりと半回転して納まるところに納まった。状況は好転している。
あの日で止まったセイコーも刻みはじめたのを凝視し、ひずけデートの上では無いはずの数日は幻影なのかまた混乱した。
日没前風はSE12米、死者は蘇りローニンはややヒールした得意の姿でジブタックのシバする音が聞けるようになって、私はとっておきの氷水と、とっておきのバーボンをグラスにデッキにでた。
水平線はもう暮れる夕日に染まっていて、島影も妖しい黒雲も視界にはなかった。
「黒雲に乾杯!」
喉が焼け付き不覚にも咽せた。やり直しだ。
しみ込むような冷水をひと息に飲んでから、
「ゴンザレスに乾杯!」
バーボンより水のほうが旨いのを、この時はじめて知った。
「レプラかどうか医者じゃあないからわからんし」 私は言った。
「象皮病とか蝋燭病とかいろいろあるだろ、熱帯特有の原虫かウイルスかもしれんし遺伝かもしれんし、栄養障害とか近親婚とか」
サテナヴの最初の信号音がピーッと聞こえると、表示はまだ'N'でもはっきり我々の世界に帰り着いた安堵で満たされた。まともな世界が呼んでいた。
それから四百マイル程走って、私たちはどうにかマルクの州都アンボンの深い湾の奥に投錨できた。
シロットが船を下りたいとゆうのを十万で慰留した。
カマダは医者に行くとか言って出掛けた。
私はホテルマニセでこれを書いている。
ペンを置いて両手をしげしげと見る。幸い白蝋化してはいないし感覚も鋭敏だ。
あの数日は実際にあったのかさえ緑濃い芝生と赤く咲き溢れる花を眺めると疑問に思えてならない。
それともカームの幻想か夢幽だったのか。
頚に手をやるとイカが呉れた白い鮫の骨の十字架に触れた。
立って窓から見やると、椰子の梢、錆びた貨物船の横にローニンの優美な姿が紺青の海に際立っていた。
遥かサラホトの峰に雲が湧いていた。
午後ひと雨くるだろう。
完
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