
29 ニラの人魚 第二章 1 (マキアン養殖場)
スムスムの来る日
プラントサイトに帰った吉田の気持ちは晴れなかった。することがないのだ。
湾に浮かぶ養殖筏を核入れ小屋から眺めてみても、先の見通しはまったくたたない。
裸一貫、ほんとうにこの島に来たときはアーネムランドのクロ(アポリジニイ)より持ち物は少なかった。最初に半円真珠をやった。これはバカでも出きるが宝飾品とゆうよりアクセサリイだ。それで僅かな資金を貯めてこの島のコンセッション(権利)を得たのだが、それも華人のファンキーが捨てていったものだった。奴は堪え性がなくて焦ったのが失敗だったのだが。吉田は意識して数は少ないが母貝をこの付近から集めた。水に合っていた。核入れで勝負が決まるがそれは誰にも負けない自信が持ちこたえさせた。死んだ貝はなかった。
浜あげ数も知れていたし上がりタマも大した出来ではなかったから、まあスモッケル(密輸)と同じで州にも管理局にも払わず、市場入札にも出ないで玉は鞄に詰めてバリに運んだ。運とゆうものはあるようでその当時バリはちょうど観光ブームに火がついた頃だった。
店に直接置いて貰ったり買って貰ったりの行商が思いの外当たってまずヤマハ附きのボートを買って自分で島まで運んだ。40馬力は役人の外彼だけしか持っていない代物だ。
店の売り子の華人娘とねんごろになったのもその頃で、娘はバリのシナ人でそれなりに苦労していた。バリの男と一緒になっても皮膚の色も顔形も変わらない一生生まれはついてまわるのは父母を見ていて知っていた。父も商売が旨く行くと虐められたり疎外されたりしてロンボックに越してやり直したりロクな思い出はなかった。ヨシは日本人だが日本人らしいところはまるでなく初めはフローレスのシナ人と思ったくらいだった。お互い流れ者同士、どこにでも行くと言った。
長男にアズマ(東)と名付けて呉れたのはアキヤマさんだ。
此処の人はズの発音が出来ずアジュマになるのが少し気になるが東国の男子なので気に入っている。
アズマが中学に入る頃には最低でもマナドのミッションスクールに入れたい。俺はキリストじゃあないけどマナドの雰囲気は首都ジャカルタより好きだし英語でも喋れればまたいいチャンスも出てくるだろう。男は学歴だ。学校はいい友達も出来る処だと聞いている。
その為にも何とかしなきゃならん。いっその事筏の守り役をバリから呼ぼうか。だけど安いといっても此処より高いしまたあのアダット(習慣)だ。ここの奴らは気狂いだ。ありもしない迷信におどおどしくさってからに。
核入れのステンレスナイフ、顕微鏡、ガラス皿みんな俺ひとりで揃えたものだ。俺の国はみんな銭の力で入ってくる。資本は初めから日本からだがオレは違う。此処で稼いで此処に入れている。銭が資本が無くなっても帰るとこなんてないのだ。
誰もいない養殖筏が蒼い海面に浮かんでいる。静寂。
湾からひと筋の航跡が真っ直ぐ進入して、頂点から放射状の柔らかい波紋を曳いている。
鮫の背鰭が見えない。イルカなら騒々しく跳ねるだろうに、、、。
一年に一回満月の大潮にそれは深海から浮かび上がる。スムスムの来る日が近い。
島中の善男善女が前の日からそわそわしだして、男達は決まっているのに空の白い月を見上げて何回も確かめた。
誰に命じられるわけでもなく誘いあわせるわけでもなく、いったいどこにこんな数がいるのかと思う丸木舟が浜に勢揃いして時を待つ。
青白い月明かりの下、予兆もなくスムスムの一斉浮上が始まって、村人は先を争って一斉に漕ぎ出す。海面はもうスムスムの白い異様な乱舞がはじまっていた。
吉田は眺めていた。
秋山さんは気がつく人で、今度逢った時も醤油と粉わさびを包んでスムスムにゃこれがなけりゃと笑って手渡して呉れた。こんな離れ島では醤油の買いだめも出来ず終わればそれっきりで日本もどんどん異国になってゆく。それもまたいいのかも。
吉田はそれで思いだして、大切に持ち帰った土産のダンボールを開けて新しいレギュレータを撫でた。メッキもまぶしい新型だ。タンクのパッキンも変えてシュッとエアを通す。心なしかいつもの空気より美味しいみたい。
仕事以外に潜ることなぞ、もう忘れるほど以前のことだったが、沈黙の世界に還って自分を見つめ直すなどと学校出の男が言うような奇妙な気分も手伝って一度マスクを濡らしてからダブルタンクを背負う。吉田のフィンはアマチュア用ではなく大きく長い。
その頃には湾はカヌーの群でいっぱいで、それの数万倍のスムスムが産卵の為に浮上しはじめていた。年一回の狂乱乱舞だ。
白いみみずのように身体をくねらせ絡み合い、深海から湧いてくるさまは異様だった。
雌は月に支配されているとゆう。ある種の陸蟹、海亀の産卵、人間の女性も月に支配されているとゆう。この世の仕組みなど何も解ってはいないのだ。
海中といわず海面といわずスムスムにあふれかえり村人は女も子供も我を忘れて喚声をあげながら掬いあげ口に運んでいる。俺も一仕事終わったらワサビ醤油か三杯酢でお相伴しよう。スムスムを食べれば精がついて長生きできるとゆうから。
吉田は筏の縁から静かに海に入り、マウスピースを確かめてから筏に結ばれている太い錨綱を伝って潜り始める。周りはスムスムだらけでゴッグルを掠めたり当たったりあとからあとから強烈な生へのエネルギーを放出させている。
錨綱は暗黒の海底に達しているが、怖い程の透明度でも夜の海中は手の届く先の視界はおぼろで、きっと母の胎内を想わせ吉田はむしろ心休まった。用心の為細いライフラインを綱に結ぶ。暗い海中では時として方向感覚が失せる。潜水は異界への侵入とゆうことをプロはよく知っている。どんなヴェテランでもなにかの拍子にパニックにもなる。
そっと綱から手を離し浮遊した。一回転して地上を支配している上下感覚も失せて生まれ出る時のような甘美な気持ちにもなった。水圧が自分を締め付けてくるのも大きな腕で抱かれているような安心感すら感じていた。人間は地上の底辺でうごめいて暮らしているが、
海は海面とゆう眼に見えないフィルムで覆われただけなのに全く異なる世界が展開している。その薄膜を破って中に入れば、上下の世界は消えて重力から解放された自由の空間になる。呼吸すら遙か太古の過去の記憶からか緩慢になって、上昇してゆく気泡も減って行く。このまま沈下していっても何の不安もなく時間も超越した悠久の悦楽に浸れる誘惑が芽生えはじめる。死の世界はこんな状態なのだろう。
濃紺の世界に漂うのは自分だけだった。
自分の外にもうひとり自分がいた。
淡い視界の先に白く浮き出るようにひとりの人が自分を見ていた。
重力も上下もない別の力が支配する世界で、もうひとりの人は数メートルの先に立って自分を見ている。
僅かな海流でゆっくり流れてゆくさまは、潮流に身を任せて生きる大きな竜の落とし子のようだった。パニックにもならず、ただそうして浮遊していた。ちょうど母の羊水の中のように。
この夜の数十秒の出来事を誰に話す気にもならなかったが忘れられる類いのものでもなかった。
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