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32 ニラの人魚 第二章 4 (マキアン養殖場)

カランガン ニラ
   吉田は円筒にしたチャート(海図)を机に拡げた。
赤道0度 東経126度、スラウエシとハルマヘラを隔てる海はマルク海とゆうが、世界でも此処ほど忘れられた海はないだろう。海の北はモルッカパッセージで直接広大無辺の太平洋に、南はもの凄い潮流がスラ島になだれ込んでバンダ海に通じ、600`×300`ほどあるか。周りには何の有用な資源もなく人口も希薄だ。航海する意味がないから誰も通らない。十六世紀のスパイスブームの時の方がまだ船は来ただろう。
東側には俺のいるバチャン群島が南北に並んでいる。
海の真ん中北に虫眼鏡で見えるほどにマユ、テイフォレと小島がある。水深二千米の海の中で海面に出ている処はこの二つだけだ。ニラはそのずっと南西に点在する岩礁群ゴライチの中の何処かなのだろう。
どうしても考えが纏まらない。しかし頭の中は青真珠とニラしか浮かばなかった。

行こうかどうしようかではなく、もう決まった事として行動している吉田だった。
なにかに憑かれているような感じがしていたのが自分でも解った。
ニラが呼んでいる。なんとか神懸かり的な気分を払拭したいがどうにもならなかった。
俺は青を捜しに行くんだと自分に言い聞かせた。なくて当たり前だ。真珠屋十五年で見たのは親方同輩の中で俺だけだから有るはずはないのだ。
バジャウに採らせて買えばいいのだが、彼等がいつ来るのか当てにはならない。事実奴らがサイトに来たこと自体初めてなのだ。

四十馬力の主機のほか六馬力も載せる。外洋でエンジンがパーになったらスラ島まで流されて骸骨だから。燃料も水が混入していないか慎重に移し替えた。
カランガン(岩礁)に水は湧かない。ジェリゲン六本を船倉に万一の為沸騰させ冷やしたすぐ飲める水を二本別のハッチに格納した。食い物にはこだわらないミー(麺)で腹が満たされればそれでいい。たぶん魚も入れ食いだろうから。
幸い乾期に入っていて海況は安定している。
「あした遠出する」 女房は俺が時々ひとりでバチャンやもっと遠いテルナテに行くので別にいつもと変わらなかった。
「どこ?」
「南のカランガンだ。新しいエンパンを見に行って来る」
女房も今の場所に問題があるのは承知していた。
「遠いの?」
「そうでもない、ニラとゆうらしい」
アズマが振り向いた。「パッ、一緒にゆく!」
「シゴトだからアズマは留守番だ」
吉田はなぜか狼狽した。子供がニラを知っていた疑問が胸につかえていたから。
アズマはニラと聞いてから普通でなくなった。父親のズボンを握りしめて片時も離れない。
言い聞かせても宥めても聞かなかった。こんな子供ではなかったのに。
泣いたり騒いだり駄々をこねたり、結局出発出来ず一日何にも出来ない状態だったが翌日も変わらなかった。
一人っ子の親は弱いものだ。根負けした。大人のライフジャケットを縫い直した胴衣を着せたらころりと泣き止んだではないか。まあ生まれた時からずっと海と筏の暮らしだから子供といっても慣れていると父親は自分を納得させた。

どこにでもある名前のハラパン希望と白くなぐり書きされた九米の中古鰹舟は湾を出て九時の方向に転針する。小さいスントコンパスがぐるりと回る。
アズマがテイラーを握っている。なかなか役にたつ。父親は微笑んだ。大した奴だ、水も欲しがらず位置も変えない。大騒ぎしないで初めからピクニック気分でやればよかった。所詮その程度の道行きなんだから。赤く日焼けした親子は母親が手渡したナシウドウックを手づかみで食って顔を見合わせて微笑んだ。とても気分が和むいい時が流れていった。
何もない海原を四時間走った。これも秋山さんが置いていったメガネで水平線をチェックする。岩礁を捜すのはコツがいる。ほとんど水面上何も見えないから。
空を見上げて鳥など捜したが一羽もいない。海面もミオはなく一面同じ色をしてゆったりとうねっている。やや不安になって白い波を捜す。俺としたことがそれは前方ではなくほとんど右手三時の方角にたまに白い一線が表れて消えた。行き過ぎたらしい。
陽が暮れでもしたら、雨雲が出たら、波が立ったら見失っただろう。南無三、減速した。
水の色がコバルトに変わり点々と岩場が広がり波に洗われてそのずっと先に小島がひとつ、
あれがニラだろう。大きく迂回しながらアプローチしてゆく。どこにでもあるカランガンだ。ここで無数の海鳥が一斉に舞い上がり、糞の臭いも漂ってきたようだった。
小魚の宝庫なのだろうが小島は切り立った崖でニラには接岸出来なかった。海が荒れれば
これほど危険な場所はない。周りは岩礁と浅瀬で風よけ波よけの溜まりがない。暗礁だらけで錨を降ろす場所も見当たらない。
どんな島にも必ず一カ所は小さくても上陸箇所はあるものだから親子は慎重に小島の周りを調べて僅かな砂浜の先に目一杯ロープを繰り出してダブルアンカーにして舫った。
幸い西の空は真っ赤な夕日で豊籏雲もいい案配で時化の予兆はなかった。
今日の仕事は終わった。

天上の神はその日の終わりの儀式を執行していた。
巨大な太陽は綱が切れたように急速に落ちて行く。それに和してまず空が赤から緋色に、紫紺にめまぐるしく染められて行く。籏雲も調和してゆっくり移動しながら海に光りの綾を投げかける。放射された光の帯は海面を照らし青から藍に遂には限りない闇に向けて移る頃に金星がひとつキラリと輝きこの日の終わりを告げる。
金星のようなランプに灯を入れてから汐の身体を二人で拭いた。インドネシア東部標準時19.00 ジャカルタから2500`時差三時間、父の母国の真南5000`の海の上だった。

暗い海には慣れていた。水音がしても慣れていた。考えることもそう多くはない。
吉田は子供が眠ってる後部デッキの後ろに座ってぼんやりと明日の仕事を考えていた。
潮も外海の割にはなかったから潜るには好都合だ。陽が昇ったら20分で3セットやろう。慌てることはない、舟の回りをやればいい。そこの様子で岩場の周りはだいたい見当がつくから、昼過ぎに見当を付けた深場を2回当たってみてシャコがいなければ多分青もないだろう。ブルーがしゃこ貝にあるのかどうかは解らないが、バジャウと此処で会える偶然なんかあるはずもない、今はそれだけしか解らない。
長い夜がゆっくり過ぎて行く。
遠くで虫の鳴くような声がしていた、さっきから。
音のする方を透かして見たが、黒い空と暗い海があるだけで、磯に砕ける波の音もしなかった。
細い金属音のようで、続いていた。静寂の中では音とも呼べない音が周りの自然にはそぐわないように甲高く通過してゆくように感じられる奇妙な体験だった。
吉田は頭を振り首のうしろを数回叩いた。ジッポを擦って時計を見るとまだ十時には間があった。水を飲んだ。ひとりで沖に出るときは決してアルコールはやらない。煙草はなくてもいい体質だった。音が続く。気のせいか、音が少しずつ高くなるような気がして、原因が解らないからやや不安になっていった。
キーンとゆうには少し違うが場所柄違和感があったがそれ以上のものではなかった。
耳から耳に抜けるような、、
吉田は耳を塞いでうずくまり、アズマの所まで行こうとした。
吉田が我に返って時計を見たら十一時十分だった。その外は何もなく、弱い波が寄せて返していた。ある時間意識を失ったのは事実だったが、それが何でなのか解らない。
夜明けはまともに訪れたし俺もまともだ。しかし気を失った事も事実だ。ケアンズでオージーと殴り合って気絶した時は気がついたら鼻血だらけだったが、二回目の失神がこれだ。眠り込んだだけだったのか? いや違う。耳に抜けるような音で脳味噌がおかしくなったのが解って、それで耳を塞いだのだ。

「Mau makan? 食うか」といってNISSIN Cup Needleと書かれたカップに湯を注いだ。
「お友達がゆうべ来たよ」
アズマは言った。
「Siapa ini誰が?」
「友達だよ、ニラで会う約束だったからきっと今日もくるよ」
「夢でもみたんだ、忘れなさい」
島では友達もいないアズマだった。いつも一人遊びに慣れているが、いつまでもそうさせてもおかれまい。それが心理的に友達を求めているのだと思ったが、なにか忙しくしていないと落ち着かなかった。
「父さんは今日は仕事だから、おとなしくしているんだ。海は危ないから父さんが居ない時は舟の真ん中かキャビンに居るようにしなさい。これは決してほどいてはいけない」
吉田は子供にライフラインを通しアイに止め、予定より早かったが海に入った。
はじめはシュノッケルだけで岩場を当たり、一度上がってからボンベを背負った。
わけのわからない事以外は極めて順調だった。
回遊魚の一団が眼をきょろきょろ動かしながら通過してゆく。
無数の小魚の大群がそれで一尾の魚のように隙間ない集団で鱗を煌めかす。
あちこち知っているが此処は凄い。深くはない海底にはびっしりと貝が貼り付いていた。
水面はまだ斜めの陽光でキラキラ輝いて、ハラパンの汚れた船底が見上げられた。
フックで貝をおこすと魚がすかさず集まってくる。目指すはシャコだ。吉田は慣れた動作で底に眼を光らせて移動したがアズマの様子も気になって長くは潜ってはいられない。
まあ収穫がなくても、母貝は豊富だからそれだけ採集に来させても元はとれる。
はじめから当てにはしていなかったのだ。ブルーが簡単に採れればブルーそのものの価値は下がるわけだから。
ラダーステップを昇り重いボンベを脱いで煙草を吸った。これが旨いのだ。
アズマは命綱を付けたまま舷側に立って海を眺めていた。
あの音はしなかった。当然だろう、音のする要素なんかないのだ。ここは無人島で人工のものなぞ俺の舟だけなのだ。
「お昼を食べたらトモダチが来るって」
アズマはお気に入りの箱からプラモデルスポーツカーを取り出した。
「そうかい、よかったね」
飯を炊いて採ってきた貝を割って食べた。釣りはしなかった。
午後のポイントの為舟を少し移動させた。ニラの崖は海鳥の糞で真っ白だったが肝心の鳥の姿はなかった。2セットやってお仕舞いにしよう。自分の気負いが少しばかり気恥ずかしかったがこれで納得出来る。そんなに旨い話はそうそうあるものじゃあない。

ウエイトを加えて深場の用意をした。アズマにはさっきより時間がかかると念を押した。
垂直に近いドロップアウトをゆっくり沈んで行く。太陽が真上だから光もよく届き十五米くらいまでは何とか明るいが此処は深すぎる。五十米以上になれば浮上するにも二段構えでないと潜水病の危険もあろう、一回だけにしようか。深度計を確認する。
付近を見渡す。
後ろから斜めに横切った何かがいた。鮫でないのを祈るがこんなに魚が多い海ではホワイトポイント(頬白鮫)も満腹で人間は襲わないだろう。
沈んで行く。頭がしめつけられるようで耳が鳴りだしたのは耳抜きが充分でなかったからか。
誰かの声が聞こえた。いやゆうべの音だ。

下方に三尾、スピードをあげて下降してゆく生き物がいた。真っ白だ。
慌てるな、パニックになったらオワリだ。シーナイフを抜く。
それは反転して斜め上方になるにつれ視界にはっきり捉えられた。人間だ!
吉田は呆然として為す術がなかった。
自分の上を水平に過ぎ去る。いるかの群よりむしろ優雅だった。
また来る! 速さでとても太刀打ち出来ないからこうしているよりしょうがない。
スムスムの夜のヤツと同じようだ。
ツルンとした皮膚、短く細い腕は身体に密着させ、坊主頭で眼や鼻が小さい宇宙人だ。
今襲わないからその気はない。海の中では勝ち味はない。放心状態で次ぎの展開を待ちながら気泡を確かめゆっくり早く自分の世界に帰るべくフィンを動かすにはある種の努力を要した。
海面の輝きが増してマウスピースを吐き出しシュノッケルから最初の息を勢いよく出した。
ハラパンは200メートルほど離れていたからゆっくり泳いだ。誰かに足を引っ張られる怖れはずっと続いた。
振り向くと海面が盛り上がるようにあいつ等の航跡らしき筋が水面に印されているが近づく気配はない。こんな不思議な体験をしたにしては自分でも驚くほど冷静だった。
舟に上がるとデッキに息子の姿がなかった。アズマ!と大声で呼んだ。いない!
キャビンを確かめてから反対舷に走ってもういちど絶叫した。答えはない。
ハラパンの左舷百米辺りの海面にアズマのライフジャケットのオレンジ色が見え、もう一度呼ぶとこっちを向いて手をふっているではないか。
今行くぞ、父親は浮き輪を思いっきり投げて飛び込んだ。
ゴッグルがその抵抗で吹っ飛んだ。
息子は浮いたまま近づいてくる。
「トモダチに逢ったよ、パッ」
全身の力が抜けて思わず浮き輪にしがみついた。
アズマの友人は海面からスキンヘッドの頭を出して笑ったようにしながら親子の慌て振りを眺めていた。
身体ががくがく震えているのは父親だけだった。これは一体何なのだ。ナガかモヨヨか?

その夜はまんじりともしなかった。出来なかった。音がするのに耳を澄ましたが何事もおこらなかった。
夜明け前に錨を上げてマキアンの家ではなくバチャンに向かった。そこには郵便局も電報も打てる。その日の夕方ジャカルタに電話を入れたが通じず、電報を打った。

宛先: ミスタ・アキヤマ ジャカルタ
  シキュウ オアイイタシタシ アスヨルイコウ ミンペイジムショニデンコウ
                               ヨシダ マキアン


 
 
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