慢学インドネシア {広すぎて困っちゃう} お国柄
 
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1 ジャワ スンダ ブタウイ

余所の畑に違ういなご
インドネシアでは'処かわれば品かわる'をLain Padang Lain Belalang 余所の畑に違ういなごと謂います。
ひとつの言葉、ひとつの民、ひとつの国のかけ声高く独立した共和国は、半世紀たってそれまで四百はあろうかとゆう言葉を一言語インドネシア語を国語として、三百余の多種族をインドネシア人として認知させた世界でも稀な偉業を達成しました。
Indonesia Bersatu(、、はひとつ)は絶対ともいえる理念ですから、種族毎の人口統計はないので漠然と区分けされている州人口でおおよその数を把握するしかありませんが、近来の人口爆発と流動で正確には不明ですが、人々の口端には事あるごとにSuku(出身族)がアイデンテテイのよすがとしてクローズアップされるほど重要です。あ奴はジャワで腹黒いとか、パダンのケチ、ブギスに刃物とか。
三十年余の独裁専横政権が崩壊して、それまでの臭い物に蓋の汚濁が経済恐慌も絡んで噴出し各地で混乱や暴動が発生しました。ご承知のようにこの国は一万余もある島嶼国で地方毎の格差が非常に大きいし、人為的な移住政策もあって国是'多様性での統一'が揺らいでいるやに見えますが、いずれ大インドネシアとして世界第六位の住民を擁する大国として安定するでしょう。

長いオランダの圧政でここの人たちは移動を禁じられ、故意に同一言語を話せず孤立して暮らしてきました。東西に五千qもの距離を有しても気候変化が余りないのでそれを実感出来ませんが、西のアチェと東のマルクでは同じ国とはとても思えない隔たりがあります。
アメリカのように遠くない過去に移民で立国した国では習慣や風習にさほどの違いはありませんが、この地は相互に関連なく何千年も暮らしてきたのですから同じであるはずがありません。独立後ともにひとつの目的で交流し協力して国造りに励んでいますが、少し注意すればそのお国柄は顕著にみられます。
我が国でもつい昨日まで、会津と薩摩、長州と南部では人の言葉も性格も異なったのと同じです。此処にはまだ厳然としてその時代が息づいているようです。
首都ジャカルタは寄り合い世帯で東京と似ていて、それが一層明瞭です。スマトラ・バタックの人とジャワ人では顔形だけでなく食べ物、同じインドネシア語もアクセントは異なり、喋る性格も大きく異なります。お国自慢は顕著で陰口は他郷の人を良く云わないのは何処でも同じでしょう。
主だった種族に登場いただいて、お国自慢と人様の陰口も一緒に並べてみましょう。

共和国のハート ジャワ
エメラルドのネックレス、インドネシアのイメージは、たおやかな黒髪を金の簪で結い上げ、茶の濃淡縞模様のバテイックサロンを腰高に締め上げ、胸もと豊かに薄い上衣(クバヤ)を纏い、優美かつしとやかな気品に溢れるジャワ美人に象徴されよう。
インドネシアは多かれ少なかれジャワ、それも中部の古都ジョクジャやソロのイメージで印象ずけられるのも他州を圧倒する文化の賜物で、'インドネシアは'と話す時には無意識にジャワが頭にあるのも、過去の壮大な歴史がこの地で培われた事実による。
イスラムに被われた列島だが、歴史の黎明からインド仏教シャイレンドラ王国のボロブドール建立、強大なヒンドウ国家を建設したインドネシアの栄光マジョパヒトの誇りはジャワ人の心の深層に宿って決して滅びてはいない。
ジャワにいると、敬虔なイスラム・サントリ(白)でもアバンガン(赤、不熱心な信徒)でもないにしろ、イスラムが重層文化の上澄みの新興宗教に感じる時があるほど奥行きが深い。ジャワはどんなものであろうと、どんなに時間がかかろうと、ゆるやかに取り込んで、いずれは己の望むジャワナイズ(Kejawen)にしてしまうようだ。ジャワ人の心は結局クバテイナン(神秘主義)に支配されているのではないだろうか。

狭すぎるジャワ(全土の7%)に圧倒的に稠密な人口(密度700人世界最高)が、過去の壮大な歴史を積層させて有為転変を繰り返してこれたのも、背骨山脈は三千米級を含む百を越す火山群が噴出する沃土と、生物生存に最適な気候の成せる業だ。
黍の島ヤーヴァドヴィーバからジャワ(Jawa)に転化したといわれるが、いまだにオランダ訛りのJAVAジャヴァと書く不見識な人もいる。
東西千キロ足らずの小島に一億数千万人が犇めき、全人口の七割強が彼等で占められているけれど、外領人は資源も何もなく子を作るしかない能無しと陰口をたたくが、共和国は今もってデモクラシイでも個人主義でもないジャワ人が支配するジャワ王国だと言って過言ではなく、インドネシアは人々にも高官にもジャワとその他のDaerah Diluar(外領)との意識がある。

がっちりと完成された三毛作稲作封建、個は無に等しい村共同体に守られ、かつ規制された逃れられない農民生涯。
生きる知恵も生まれながらに体得しているから、人をそらさず万事控えめで、優雅で激せず、温厚で細心、忍耐と寛容、しっとりとした感性を維持して事に当たり、柳に風のように折れそうで折れず、負けたようで屈せず、したたかな、玉虫色処世の見本のようなジャワ人気質。表だった自己主張や、大声で威嚇したり威張ったり誇示自慢など最低の感性だ。
利口ぶった西欧民主主義の新風潮も、遠い惑星のお噺のように聞こえるジャワの暮らし向き。それでも数千年を、しぶとくこうして生きてきたのだ。
トリニールの河岸で世界最古のピテカントロプス・ジャワニーズの頭骨化石が出土した。
なんでも人間の祖アフリカ・オルドバイ渓谷をルーツにした我々の始祖とは異なる百五十万年前の第三の人類の可能性を秘める。オランダ植民もたかだか三百年、どうとゆうことはないといった悠揚迫らない達観とゆうのか、得体の知れない心情を感じる。
ジャワのイメージは南国の緑でも南海の青でもなく、限りなく茶色だ。土の色で根の色だ。かの名高いソロバテイック織りのような。

軟体動物
ジャワ人のパーソナリテイは限りなく少ない。茶色の肌の小柄な姿で顔も似通っている。考え方も決断も似ていると思う。個は家と家族に帰し、家は村に帰し、コミュニテイはジャワに帰す。今時そんな弁を弄せばお叱りを受けるが、人権すら希薄と言わざるを得ない。
個人は集団に帰すから自由気侭に暮らす事など絶対に出来ないだろう。成功も出世も家と郷里があっての事で、意識もすべてはそこに帰る。自分である前にジャワなのだ。
地縁血縁、閨閥・学閥・地縁閥、あらゆるしがらみで、がんじがらめに絡め取られる。
権力、肩書き、家柄に弱く、そしてそれらを探し、結び、頼り、利用しながら少しでも有利に生きる道を探す。それが最終的には安らかな生涯を送れる知恵なのだ。
事業許認可(権力の多くはジャワ人が保持する)も法律に則り審査と適正を計るのではなく'誰某を知っているから''部長が親戚筋だから'で決まる情実が常態だ。
浅知恵しかなくモダンな近代人と錯覚している我々など足元にも及ばない処世術で、ジャワ人との交渉事だと、いったい何処に真意があるのか、何が望みなのか全くわからない。勝ったようでも彼等は'運がまだそこまで来ていない'泰然としてにこやかに、聞こえないような小声で話しながらも決して諦めない。そして最後は彼等のものとなる。

十三世紀の元寇は文永、弘安の役で北条氏は一歩も入れじと切り結んで、やっと神風台風で事無きを得たが、1293年ジャワに元軍が押し寄せた時には全軍を招き入れ、時を味方に結局同化させてしまった(トウバンやシドアルジョには元軍の末裔とゆう人が住む)。
せっかちで短兵急に結論を急ぐのとは大違いで、のらりくらりとしているようでしたたかさがあるのは、戦時賠償交渉だけでなく、現在の合弁事業でも政府間交渉で卓越した外交手法を持っていると言わざるを得ない。

共和国も所詮ジャワの、それもスハルト(ジャワ人の完璧な見本)のお家第一主義、ウリハンダヤニ(ジャワ語で導く)儂についてくれば間違いはないと国と家を一緒くたにした弊害が突出した。あの時代スハルト一家でなければ人でなく、Asal Bapak Senang(貴方様さえ宜しければ)それさえ甘んじれば食ってゆけた。
反面親分ひとり取りでは没落する。親分は子分眷族に分け前をばら撒かなければならない。その寡多で地位と身分が保たれ、オランブサール(大人、偉い人)になれる。
ジャワのオランブサールは銭の話しは下品で鷹揚に構えなければいけない。損得などしもじもの関心事だ。それなのに銭が大好きだから収支が合わず、事業商売は殆ど失敗して華人に取られてしまう。ジャワ人の価値感は異なる次元で存在するようだ。
給料取り(それだけで出世)は薄給でも家への仕送り、兄弟従兄弟への学費で大半が費える。
小役人月給十万ルピアではやってゆけない。なにせ彼は鷲印のスラガム(制服)を着ているのだから無いでは済まされない。で、行き着くところへ行く。賄賂行政だ。上は大臣下はお巡りさんまで、会社の地位も出世も余録で成り立つ。会社より家であり身内最優先、それぞれ事情があるから罪の意識は無い。ジャワ文化だから。
この悪癖は政権が変っても一夕一朝には改善されないだろう。なにせジャワは最大派閥だから。知り合いは助け合い、強者は弱者にセデカ(喜捨)しなければならないのだから。

差別用語ともとれる難解な階級語、他人を寄せ付けないが如き固有性とクジャウエン(kejawaan中華意識)を優雅に隠した内面が、他郷人から逆に敬遠されるのかもしれないが、それが考え過ぎではないと思うほど、ジャワの茶色の粘液にまつわれつかれた日常になってしまう。悠揚迫らない風格すら彷彿させる。
ジャカルタ(西ジャワ)で働く男が帰郷する時に、彼等は必ず「ジャワに帰る」と言う。
此処もジャワ島じゃないかと思うのは素人で、ジャワ人はジャワ島がジャワではない。西ジャワはもう他郷の感覚なのだ。
共和国のアイデンテイテイは好む好まないにかかわらず、ジャワで代表されるし、事実ジャワ人が支配している。まことに軟体動物のように、曲がっても折れないのだ。

いまさらジャワの歴史と地理を云々したところで饒舌に過ぎてパンチに乏しい。
いまさらマジョパヒトの栄光でも、古都ジョクジャでもボロブドールでもあるまい。
あまたの本に書かれ解説されている。しかしジャワ人気質は他郷人には依然として謎だ。
さながらソロ・バテイック(更紗)の茶色濃淡斜め柄の複雑優雅な模様が、ジャワ人の心の襞なのだろうか。
歴史にもしはないが、もし、ジャワ王朝権謀術のお家騒動や権力争いが日常茶飯事でなかったら、異邦人オランダ介入の余地も無かっただろうと悔やまれる。

気になるのは賄賂でも腐敗でもない。過剰人口による分配からの、変わらない底辺層の貧困が、既に常態化してしまっていること。ジャワは貧しい。とても貧しい。
広い土地に少数が自給する過疎地貧困ではなく、これでもかの過剰を養いきれないラングール鼠の悲惨な現状がある。
賛美されるジョグジャ王宮芸能の都から遠くない南部キドールの赤貧地帯は、都のそばなのに文盲率は高く、この国の人間の価格を下落させている。
過密と貧困は既に限界を越えている。さしもの沃土ももう湧いてくる人間を養いきれない。恥も外聞もなく、女中が最高の就職で、初潮を迎えてすぐ結婚し、子供が出来れば亭主は家を捨て、両親が何の衒いもなく孫を養育しているのは過密小作人のすべてとは言わないが、家庭は崩壊している。
優雅な資質も貧困から、急速に猜疑心とか陰湿な方向に向かう危惧があるようにも。
また男性の両性具有者のような、なよっとした性質は、華麗な歴史遺産のある地域の男性は女性化の道を辿るのだろうか。
ワヤン影絵芝居(Bayang影が訛ったのだが、影は光に映される技巧ではなく人の心に潜む暗部)もクリット、ゴレック、クリテイ、ベベルなど多岐にわたる宮廷芸能でたった一人のダーラン(演師)が即興で徹夜で演じられる。 蛍光照明で真昼の明るさを欲する文明は、夜も影も心さえも捨てたと笑っているのかもしれない。
ゴング(銅鑼)や木製打楽器で演じられるガムラン(gamel叩く、操るの名詞形)の多彩異質な演奏とリズムが外国人の共感を呼んで近年芸術に昇格した。どちらも非常に大陸色が強い感じがする。ナリモ(何でも一度は受け入れる)から中国文化(宗教や技術物品、工人、姫)が大量流入する時代に取り入れれれたものなのは確かで、ボロブドールレリーフにも既に彫られている程だ。ジャワ王室は中国人姫などを多く迎えているからそれらに連れてこられたのだろう。マジョパヒト隆盛の宰相ガジャ・マダも華人だったともいわれる。

ジャワの庶民がどの階級を指すのか知らないが、少なくてもマンク・ブオノ王家の系列ではないだろう。ソロ王家の由緒あるニングラット家も余りの子だくさんが災いして猫も杓子もニングラット、ニングラムを名乗っているようだし、ジャワ人は尊称や肩書きが大好きだから四王家の系図はまだ発行されていて、Raden Masに始まりAjeng、Ayu、 Rara、Ngantenなど序列と格式がある。 お偉いさんに会う時は、ドアから膝で歩き、先ず足に触れ三拝九拝しなければならない。手を押し頂いて恭順しなければならない。
顔を見るなどもっての外だ。まだそんな馬鹿馬鹿しい作法がまかり通っている。

暑い島マドウラ
ジャワの東端スラバヤを被うようにして平らなマドウラ島が横たわる。
誰もこの島を意識しない。口端にもあまりのぼらない。結構大きい島でジャワ、スンダに次ぐ人口稠密域だとゆうのに。暑く、なにもない島だからか。
マドウラ人の評判は芳しくない。何もないから出稼ぎしかない。地縁も血縁もないから底辺の日雇いかサテ焼き鳥屋台を曳くかベチャ人力車夫になるかしかない。住民の半数以上がジャワや外領に移住しているが、生来の強靱な肉体と待ったなしの貧困で地域社会からは鼻つまみになって、それがまた癪の種になるのだろういつも物議を醸している。
先般中央カリマンタン・スンピト騒乱も移住マドウラ人とダヤク人とがまことに原始的な首狩り殺し合いに発展してしまい数千人が犠牲になってしまった。
ジャワに接した島なのに容貌も気持ちも違う。いっそう褐色で奥眼、剽悍で激し易い。
猜疑心を鋭い眼に宿して港湾荷役や焼き鳥屋台も血縁で統制されているから夢にも言い争いは禁物だろう。彼らには捨てるものは何もない強みがあるのだから。
そんな水も田圃も少ない貧乏なマドウラで、名高いのがクラパン・サピ(牛競争)ともうひとつのものだ。地方予選を含めればとにかく年中この牛競争に血道をあげるのがマドウラ男気質なのだ。勝つためには命すら意に介さないもの凄さ。もうひとつは製塩か。
なにもない土地であるのは女だけだったのだろうが、ジャワ王家への輸出品として後宮で認められるよう精魂込めて養育したとゆう。幼児から果物、蜜で育てられ長じると専門教育を施されて出立したとゆう。王はいまその名前が金持ち富豪に変わったが伝統は密かに脈々と息づいているとゆうが。

スンダの哀愁
首都のある西ジャワはスンダ人の地だ。ジャワ島は東のジャワとマドウラ島とに分かれて、人口的にも歴史からもジャワが圧倒してジャワ人にとってジャワはその西側(スンダ)は含まれない。同じような文化習慣であっても厳然とした境界がある。
ヒンドウ時代の遺跡群はボルブドールはじめ多くがジャワに残るし、西ジャワには観光客を引き付けるそのような遺物はない。ジョクジャ、ソロに並ぶ王家もない。西ジャワはいつもジャワにリードされてきた印象はぬぐえない。
現在の州境チレボンのそばのチロサリとチタンドウイを結ぶ線で言葉も習慣も女の髪型も変わる。顔もジャワの丸顔からやや頬骨の高いスンダ顔になる。奈良と京都より異なる。

スンダ語を話しスンダ・アダット(慣習)を共有するアラムスンダ(スンダ世界−関東より少し大きい)に3、500万人が、ジャワの侵略や通婚などで取り込まれそうになっても、パジャジャラン王国の栄光を誇り、プリアンガン高地とバンドウン盆地を中心に独自の文化を築いてきた。
バンテン地方と呼ばれるジャカルタも含む低地帯は、だから一段低い存在であったのはいなめない(バンテンは最近新しい県で独立した)。そこに偉大な首都ジャカルタが興ったのだからハイランドの人達は内心やや穏やかではなく、スカブミ、チャンジュールからプンチャック(峠)を越えれば下界意識があるようにも感じられ、スンダ美人はあくまでバンドウンで低地ではない。
もともと種族芸能は盛んな地方だから、ワヤンオラン(ジャワ影絵と対抗する人芝居)やヒンドウに薄められたイスラムとゆうか、神秘主義(アバンガン)精霊崇拝が混合した複雑な精神構造があるようだが、異邦人にはわからない。
外人は高速道路を往復して首都と州都バンドウンのほかには余りご縁がないようだが、遠いバリなどを観光しなくてもスンダ近在を歩けば大いに収穫があること請け合いだ。
パラヒアンガン・バンドウンハイランドに点在する温泉、パンランゴ、グデ、タラガの三千メートルに近い山々、ガルート火山帯、スメダン豆腐、タシクマラヤ、華人渡来の古都チレボン港、オランダ降伏地スバン、神秘教の聖地バンテン、ランカスビトン、ジャシンガから、一切の近代文明を拒否する古代人バドウイの国(立ち入り禁止)チベオ、ロロキドウルのミステリイ、プラブハンラトウ(姫湊)、ボゴール近隣、バトウトウーリス、野性の国ウジュンクロンなどなど。バンドウンは文教都市でそれが自慢だ。調べ物をするならこの街に行かざるを得なくなる。
言葉は難解で、スンダに入ると途端に道路標識が読めなくなる。
ジャワ語同様の階級語で複雑、発音も困難だが、邦人長期滞在者は事業の関係(繊維・機械など)で多く、スンダ語をマスターした方も多いと聞くから、一度邦人のスンダ会話を耳にしたり浅学の筆者の知らないスンダ学習を受けたいものだ。

イスラムと聞くが、この扇情的な踊りはと疑うジャイボンガン、アドドンバ(闘山羊)の興奮、カシダハン(イスラム詠唱)コンクール、そうしてダンドウット発祥に繋がる懐ろの深さ。なにも与えられなかったから、せめて無形文化で対抗したかと思うほど歌舞音曲のパーソナリテイは随一で、いつもスンダが発信基地になる感じだ。 踊りとはMenariと言うが、いつのまにかスンダ語のJogetで通じるジャカルタになってしまった程。
アラム・スンダ、闇に広がる別の世界の存在は、ジャカルタの喧騒を一歩離れれば、処を代えて優勢となるからガソリンもドルも影をひそめる。世にも不思議な物語は掃いて捨てる程の日常だ。
大都市に隣接したスンダ地方だから似たようなものだろうと、高をくくるととんでもない間違いをしでかすだろう。ジャカルタはスンダの皮膚の上の腫れ物なのだから。

1970年のなかば、勇気ある赤貧のイスラム青年が、官憲の横暴に抗議してクラワンの片田舎でプロテスト・ソングを謡ってしょっぴかれた。名はロマイラマ、ダンドウットの出発である。信じられない速さでこのニューリズムは都市を席巻して広がる。
スンダ地歌の色が濃く、レバナ(打楽器)、ルバーブ(胡弓)スリン(竹笛) ブドック(太鼓)の伝統あるリズムがエレキギターに和した。出生から低所得層に圧倒的支持を受けたが、詩が下品だとか直情的で下男と女中の歌だと眉を顰める人もいたが、大衆の熱気に抗すことは出来なかった。裸電球の即席ステージに数万人が半ばトランス状態になって踊り狂う姿は熱狂的で、これでも戒律厳しいイスラムかとやや異常だった。
定めし上質なインドネシア国民歌謡コロンチョンのスタート時期の、猥雑で野卑なリズムと同じフィーリングだ。歌は理屈ではない。時代と受け入れる人々の所有に帰する。解説も批評もいつも後からついてくる。あと十年もたったらダンドウットも所を得て昇華し、次代を担うリズムで完成されてゆくだろう。なんと申しても、スンダは無形芸能の宝庫で何処も敵わない宝の山なのだ。

インドネシアの美空ひばり、ヘテイ・クス・エンダンは、なんでもこいのスーパーパフォーマーで、小さい身体も舞台では他を圧倒して素晴らしい歌唱力を披露する。
スンダ人のスウリン(横・縦笛)演奏は秀逸で、それ一本の竹でも芸術だと思う。
穴の開け方で四つはスレンドロ、五つはベロック音階とかさまざまだ。
ジャワを代表するガムランもスンダに来れば変わらざるを得ない。
ガムランスンダはDegungと呼ばれ一時衰退したが50年代ラジオ番組になって再興した。
Gong (鐘) Jenglong(鉦) Bonang(14個の小型ゴン)Peking(金属鍵盤) Panerus(その低音)
Suling(竹笛) Kendang(太鼓)の編成で、主旋律はボナンが受け持つが、スンダはやはり竹笛の抑揚とクンダンの拍子が相応しく、金属音はジャワに返した方がいい。
音階も独特で、ドレミファはda mi na ti laと呼ぶが違いは高音から低音になる事だ。
古典はJipang Lontang、Galatik Manggut、Maya Selas、Pajajaranなどが知られ、単調なメロデイが繰り返されるので一流ホテルのBGMで流されると、バリ観光客は「やっとバリ音楽を聴いた」と感激する。
スンダドウグンの新曲も新編成で活況を呈する。
近頃は行事や結婚式だけでなく、河原乞食(大道芸人)に家柄の大学生も参入し、腰をくねらせてジャイボンを踊る。バックをとる演奏者は気が乗らないような咥え煙草、投げやりなと思いきや、突然ブドウックを打ち鳴らすリズムは本物で、このずっこけとゆうのか不協テンポのさり気ないこなしの僅かな'間'は身に沁みついた芸で、それに乗る姐さんの小節も、几帳面で能書きの多い日本人には絶対に真似が出来ない。
この裾野でダンドウットが泣き叫ぶのは血の証しにほかならなず、全部が離れられない糸で繋がっている。

インドネシア独特の竹楽器アンクルンも元はスンダ発祥で、いまは学童演奏にも用いられるが本来、調律も演奏も複雑でよそ者には手が出せない。造る時の気分で作者の音階調律が微妙に変わり、一度完成したら修復は出来ないから、それを承知し理解した上で自分なりの演奏をしなければならず、それが味になるのだとゆう。もちろん教科書も工作本もなく口伝だ。
舟形弦楽器カチャピもどうやらスンダが起源らしい。多弦だが飾りだけに張られる弦もある。売れないから好き者の小役人や郵便局員などが細々と演奏しているけれど、やはり密やかに技巧を伝える師匠が厳として存在している。
フットライト煌くステージではなく、陋屋の隅で、肩を寄せ合うようにして奏でられる音曲に珠玉の時が流れるようだ。

スンダ歌謡に傾倒する邦人は多い。その抑揚が物悲しい日本民謡に似ているからだとゆう。五音階はアジアに広く用いられ沖縄が代表的だが、スンダのMadenda音階は日本と此処にしかないとゆう。五木の子守歌を聴いたスンダ人が自分たちの歌だと言い張るのもそんな事情があし、スンダを代表するラグ・ダエラBubuy Bulan(朧月)、Es Lilin(氷菓子)は確かにひどく日本的に聞こえる。

もうひとつの国? 巨大な田舎町? 首都ジャカルタ
インドネシア共和国の首都九百万都市ジャカルタ。 政治の中心は申す間でもなく経済の九割を握り、その影響力と求心力は日ごとに強大に一点集中化して、それが良いか悪いかは別にして人々はこの街を目指し、ジャカルタを除いてインドネシアは存在しない。
しかし奇妙なことに、この街はインドネシアを代表せず、この街にいてインドネシアはわからない。ジャカルタはインドネシアではない違う一国と言えまいか。
共和国を代表する真の首都になるか、単に猥雑で喧騒を極める虚飾の巨大な田舎町になるかは誰にもわからない。

バタヴィアからジャカルタへ
渋滞する通りでは昔のよすがを知る術もない。 オランダ支配を恥ずかしがるかのように、その昔を知ろうとしても歴史に三百年の事実だけが書かれるだけで、庶民の実生活や町の雰囲気を伝える文献など意外と少なく資料もない。
オランダはイベリア二国スペイン・ポルトガルの植民経営とは明らかに異なる実利収奪だけの苛酷な経営を行ったとしか思えない。その証拠にそれだけ長い異民族支配も、政治的独立を果たしたインドネシアにオランダ文化の痕跡、言葉、習慣、芸能はもとより血の証しである混血人の姿すら見当たらない。オランダは彼らを猿以下としか意識しなかったから混血も少なかったのだろう。ラテン諸国とは大きな違いだ。きっと英領時代のインド、マレーにも劣る文化教育環境だったのだろう。オランダの痕跡は僅かな機械用語、旧態依然たる法律手法にかろうじて残るだけである。

歴史に翻弄されるように首都ジャカルタはスンダクラパ、ジャヤカルタ、 バタビア、 ジャカルタと名前を変えた。
パジャジャラン王国がチリウン川河口の寒村スンダクラパに胡椒交易のポルトガル人居留を認めたのは海抜ゼロメートル、マラリア多発の猖獗の地だったからだ。要するに土地の人が住めないで捨てた場所だったのだ。
1527年、西のバンテン・イスラム王国ファタフィラ軍がポルトガルを攻め落として勝利の町ジャヤカルタと改めた。この日がジャカルタの誕生とされる。
1619年オランダ東インド会社総督クーンは、此処を母国の古代民族バターフに由来してバタヴィアと命名してカナル(運河)を巡らし、収奪の拠点とした。
バタヴィアはオランダのアジア経営の根拠地として、遠く長崎出島の交易を支配し、ジェスイット宣教団のF・シャヴィエル(ザビエル)もここから北の国に向かった。
鎖国令(1633〜41)でジャカトラに追放されたお春は、ジェロニマ・ハルとしてシモンセンとの間に四男三女をもうけ上流階級で幸せに暮らした。
平戸から来た雇われ日本人が英・蘭双方の傭兵としてベンテン(砦)で切り結んだ。
1886年にタンジュンプリオク外港を、郊外メーステル・コルネリス(カプテンコウネリアス、現ジャテイネガラ)に軍施設を建設し、小漁村は東アジア一のハイブリットな猥雑さと奇妙な哀愁ただよう植民都市に変貌する。

時は過ぎ行き、蘭領インド攻略を目指す日本軍は1942年わずか八ヶ月で完全占領し、1945年8月15日まで軍政を敷く。スカルノがインドネシア独立を宣言したのはその二日後のことであった。
ジャカルタ(Daerah Kusus Ibukota Jakarta−母なる首都ジャカルタ特別市の頭文字からDKI−デイカーイーと呼ばれる事が多い)街は東西湿地を嫌い南にしか膨張出来ず、コタ(町)と呼ばれる北区の総督府(現大統領官邸)までで、スカルノは日本戦時賠償でホテル、デパート、モニュメント、ソヴィエト援助でスマンギ立体交差点、スナヤン大競技場などを建設する。
南に向かう細い馬車路が通る森に第二のメンテン、クバヨラン高級地区が造成されたのもそんなに古いことではない。

1966年政権がスハルトになって、アリ・サデイキン市長はアンチョールリゾート、プロマス競馬場、ハリム空港、タナアバン、スネン、パッサルミングに大市場を、西側援助が投入されると華人資本家はクバヨランバルから更に南のポンドックインダなどに住宅団地を拡張し、各地からあらゆる種族が流入して都市化の一途をたどる。
ジャカルタっ子をブタウイ(バタビアの訛り)と呼ぶが、ブタウイ語が標準インドネシア語に侵入して若者を中心にメデイアを介して全国に広まってゆく。
娘さんNonaは死語になりブタウイ方言Cewekが、踊りMenariがJogetで通用し、
若者は華語でもルー(お前)グエ(俺)を常用する。
ちなみにCibinong、Cikampekとチが頭につく地名は川岸の意味で、Rawamangunとラワは沼地のことである。Pondok Gedeはジャワ語ゲデ大きい庵の意と知る。

1968年の外資開放で外国資金が一挙に流入してビルや高速道路、最初の湿地帯開発チェンカレン空港が建設され、市は衛星都市Jabotabek(ジャカルタ・ボゴール・タンゲラン・ブカシの略)の名の下に利権に群がる蟻のブームに沸き人口一千万とゆう。
翼賛与党ゴルカルにあらずんば人でなし、スハルト王国になった共和国は、腐敗政治のなか銭がすべての虚栄の街になりさがり、貧富格差増大、大気汚染、交通渋滞と近代都市の功罪を忠実に歩み、街のシンボル、チリウン川に関心を払う人々は消えてしまった。

1998年5月、国際投機集団にこの虚を衝かれた通貨暴落に端を発した混乱でのスハルト政権崩壊後、ジャカルタは糸の切れた大凧のように方向さえ定まらないで流れている。
古き良き時代Waktu tempo duluに戻るのだろうか、はたまた吸収しきれない流入人口を処理出来ず、他のアジアにあるような巨大な田舎町ならまだしも、スラムに転落するのだろうか。
暴動が起こった。政治腐敗と物価高騰に怒った庶民だとゆう。
ジャカルタ構成民の多くは身分証明(KTP)も無いその日暮しの流入民で占められている。
KTPが無ければ選挙権もなく人間には見做されない。しかし子供はつくれる。
そのような哀れな賎民が、平時の選挙運動(コンパニエ)に駆り出され、主義主張などあろうはずもなく僅かな小遣い稼ぎで眼を三角にして暴れまわる。その時しか存在感がないからだ。禁欲イスラムにカーニバルやお祭りはないから、ガス抜きのひとつだと言ってもいられない。騒乱で死人もでたのだから。扇動されれば何でもやる。商店焼き討ち掠奪で、年端もゆかない子供達が、生れてはじめて手にしたラジオカセットを抱えた嬉しそうな顔が忘れられない。一生買えない商品が並ベられ、華人商店に虫けらのように追い立てられる毎日なら誰でもそんな気分になるだろう。
街には耐えられない貧富の格差がありすぎる。いっそ昔のように皆なが貧しく、物もなく、みんなが助け合って生きていた時代がいいのかも知れない。願わくば、メンテンの街並み、ブリンギンの大木の木陰でベチャ(輪タク屋)が休み、エスリリン(氷菓子)の売り声が時を流すような、倦怠にもみえる情味のある南国の街に返って貰いたいものだ。この街にはマクドナルドやケンタッキーは相応しくない。


 
 
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