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10 香料諸島アンボン

歌好きが、インドネシアで最初に耳にする歌ががこのアンボンソング「アヨママ−ねえ母さん」だろう。
この曲は軽快で洒脱で、リズミックだからすぐ唄えるようになる。同系のNona Manisとともにインドネシアのナショナルソングの双璧で知らない人はいない。日本でも「可愛いあの娘は誰のもの」として流行った歌でもある。
西欧色の強いこれらの歌の古里は、世界の歴史を変転させた大航海時代、スパイスを求めてさ迷ったイベリア人が、遂に到達したモルッカ諸島(東インドネシア・マルク州)が必然的に生んだメロデイである。即興詩が際限なく続いて終わることがない。これらの詩はパントンと呼ばれる古くからある四行詩で、始めの句と三句、二句と四句の語尾が韻を踏み三、四句に意を込める形式で、かつては相聞歌として恋の橋渡しをする優雅な風習があった。
テキスト掲載の歌詞の三番からは、広く知られているパントンである。
アヨママ、ジャワから数千`ものファーイースト(遥かな東)アンボン、収奪の拠点バタヴィアで唄われた歌詞が流用されているのも想像以上に交流が深かったのだろう。

Ayo Mama ねえ 母さん NN
Ayo mama Janganlah marah beta, Dia cuma cuma cuma cium beta
アヨ、ママ おこらないでネ 彼はただちょっとキスしただけ、
Ayo mama Janganlah marah beta La orang muda punya biasa
アヨ、ママ おこらないでネ 若い頃はみんなそうなのヨ
Laju laju perahu laju Lajulah sampai ke Surabaya
 漕げや漕げ 舟を漕げ スラバヤまでも漕いでゆけ
Boleh lupa kain dan baju Janganlah lupa kepada beta
  服やみやげは忘れても わたしを忘れちゃいやなのよ、
Nona Manis Siapa Yang Punya 可愛いお嬢さん 誰のもの
Mana dimana jantung hati saya Jantung hati tuan yang pakai baju biru
  私のいい人どこにいる あなたのいい人 青い服着てた
Nona manis siapa yang punya Rasa sayang sayang e
  かわいい娘さん 誰のもの ほんとにほんとに可愛いな
Baju merah Siapa yang punya Rasa Sayang sayang e
  赤い着物は誰のもの ほんとにほんとに可愛いね
Inga inga itu Remember Jangan lupa itu Don't forget
   ジャンガンルパは忘れちゃいやよ
Aku Cinta itu I love you Hanya kaku Only you
  アイラヴユーはチンタム 君だけオンリーユー


テイムールジャウ 遥かなアンボンよ
蒼いバンダの海に浮かぶマルク・アンボンはテイムール・ジャウ(遥かな東)と呼ばれる。なんとロマンチックに響くことだろう。
バンダ海はインドネシア共和国の東方マルク州(モルッカ)に属し、フローレス海とアラフラ海の間に広がっている。 851,000平方`とゆうから日本の二倍以上の面積があるが、陸地はその一割に満たない74,500平方`に人口密度22人程の辺境である。首都ジャカルタから約二千五百`、観光の島バリからでも一千五百`も離れている。
ある人が「千の宝石のような島々が浮かぶ」と言ったら「999の島と1,029の無人島と言い直してくれ」と答えられたとゆう。
お隣は地球最後の暗黒パプアイリアン(ニューギニア)、南にはオーストラリア・アーネムランドの乾いた土漠地帯、どこの都市からもこれほど離れた地域は珍しく、街と呼べるのは州都アンボン(35万人)しかない。
そのアンボンもセラム島に蔽い被さられるように浮く痩せた土地の小島に過ぎず、バンダ海のあるマルク諸島は、すべての意味で文明諸国から忘れられた最果ての地といえ、ある時期スパイスアイランドとして世界の耳目を集め、人類の歴史を変えた張り子の名前でしかなく、広大な海に散らばる島々には因習が渦巻き、隣島でさえ全く習慣も言葉も異なる。アンボンの至近の北のセラムでさえ妖術を使うアフルウ族が、ゴロン諸島やタニンバルの西ババール島は首狩り婚だったし、人の口端にものぼらない噺は多い。

東インドネシアはサグ椰子食圏である。
この食材は低地で簡単に蛋白質が補給でき、稲作圏のような水利管理からの強権支配を必要としない。マルク人は白人が侵入するまで大海に散在する小島で個々に小集団で暮らしてきたのだろう。文化すら必要としない安穏で怠惰な長い長い年月を暮らしてきたある日突然にキャバレルシップの砲声に眠りを覚まされたと想像する。
遠い異国の白人達が地元では何の価値もないチェンケの実を争って求めてから、此処の暮しむきは天と地ほども変わっていった。
侵略者がやってくるまでのこの地域の確とした歴史は朧げで、人口希薄で王国すらなく分散して暮らしていた彼等の前に、銃火とバイブルをかざした異邦人が木の実さえ持ってゆき新しい神に祈ればば、見たこともない魅力的な布地や鉄器を呉れたから否応なく彼等の好みに染まっていったのだろう。
奇妙なことに、土地の歌でもインドネシア語歌詞あるいはその混合が多いのは、コミュニテイ規模が矮小で、がっちりと確立した地方文化が弱かったからか。マレー語の語彙も多いとはいえず稚拙だ。

ちなみにインドネシア列島は東から西にゆくほど、種族単位は小さくなり、使用言語は反対に多くなってゆく。
孤立し多様化(言語も含む)し、マルク地方を包含する言語はないから、歌も共通インドネシア語で作られたのかもしれない。
インドネシアの歌謡界は、奇しくもキリスト教圏のアンボン族とバタック族がリードしているのは、その理由を聖歌隊の影響とかいろいろ言われるが、彼等が元来音曲的素質があったところへ、西洋楽器や和声合唱などのテクニック、周囲がが西欧風音楽を求めた事が相乗効果をあげたのではないか。芸能でしか稼げない貧困すらプラス要素だったといったら言い過ぎだろうが。いずれにしてもアンボイナは今を時めく歌手やライターを輩出し音楽界に占める比重は大きい。舞台に色黒で縮れ毛が登場すれば必ずアンボン人だ。人々も生まれながらの歌上手で、性質も歌のように屈託がなく享楽的で明日のことは考えない。ひとりが声を出せば周りが完璧にハモってくる天性のものだ。
歌は明らかに西欧的で軽快愉快曲、詩は稚拙で直情的、やや品格がないようだが、明るく唄い易く好感できよう。

昨今のイスラムとキリスト教徒の抗争(住民比率はほぼ拮抗)が伝えられるが、過去の歴史の無差別な勢力拡大で異教徒が隣り合って不自然な村落が散在するところへ、産業も資源も無い土地に大量の政策移民で外領人が移住した。加えて町にはブギス、ジャワの出稼ぎ人(イスラム)が犇めき、極小パイの奪い合いの超過密が続いた。
マルク州には因習や迷信、タブーが十重二十重に暮しを規制@しているが余所者が知るはずもない。ひと口にインドネシアと申しても異なる文化圏なのだ。土地の人には大切な謂れの石でも、新参者には只の石ころで蹴飛ばす。これが紛争の原因にもなる。スハルトの強権で表面上は静かだったがお互いに不満は鬱積していたのだろう。
油に火を付けた組織は確かに存在するが、流言蜚語に惑わされる土地柄なのも問題だ。
インドネシア独立時代1950年スモキルとマヌサマの指揮で、公然と編入反対東マルク共和国樹立を図った。
長い植民でアンボン人の中にはオランダに惹かれる人々が多く、宗主側について独立軍と戦ったことにより、抵抗が鎮圧されたあとオランダに亡命した五万人にのぼるアンボン人がその後オランダで領事館占拠やハイジャック事件を起こしている。
インドネシアブルサトウ(インドネシアはひとつ)の旗印に忠実であればある程、このアンボン人の独立初期のあいまいな態度を根に持つ愛国者は少なくない。
ひと目でアンボン人とわかるし、中央からすれば要するに余所者なのだ。宗教抗争か旧主派の扇動か極小パイの奪い合いかは知らず、焼き討ちされ数千人が殺戮されたとゆうが、インドネシアでの動きがいまいち遅く危機感に乏しいのは、そのような長い背景があるのを忘れられない。決して異教徒同士の宗教反目だけではないのだ。
この間の事情は単一国の日本人には到底理解し得ないだろう。

ヒタムマニス(色は黒いが南洋じゃ美人)はカウインラリ(駆け落ち)が常道Aの歌のふるさとに殺戮はそぐわない。

@ マルクにはPatalima、Patasiwaと呼ばれる慣習が存在し、自分がどちらの側か知って暮らさねばならない。またアンボンにPelaと呼ぶ慣習法、死亡に関わるMuhabet、Mauwenaと呼ぶ粗霊精霊信仰が根強い。
A Jojaro、Ngongare と歌にも唄われるが、駆け落ち、夜這いは公然と行われる風習でもある。


スパイスアイランド
ロマンを感じ、スパイストレードはその時代、月面到達に優るとも劣らないエポックだから書いておこう。
スパイス(香料)とは芳香をもつ木の実、葉の総称で、古代より医薬、葬祭、祈祷占術、消臭防腐、焚香、調味料として珍重された。東洋(支那)では料物と称し、南海産のシナモン肉桂、クロ−ブ丁字、ナツメグ肉蒄、メイズ豆蒄花、カルダモン小豆蒄、ジンジャ生姜、ペッパ−胡椒が加わる。
ベトナム、カンボジアから、南支那海を横切りボルネオ北部サバサラワクより南下して、セレベス東岸からスパイスアイランドのバンダ海に至る沿岸各地から発掘される夥しい陶磁器、銅鐸、鉄器類は、数世紀に亘った南海貿易の証しである。当時南方産香料は香瓜 Tkeng-hisとよばれ、この語が現在インドネシア語のCengkehの語源だとも、漢朝(AD618-906)には、現在のマルク諸島を指してMILIKU(幸運、財産)と呼んでいたのがそのまま地名になった説もある程関係が深かった。スパイスに全く興味を示さなかったのは食生活が違う日本だけだったのも面白い。

13世紀になって、スパイスは希少価値と絶対需要に支えられ、名だたる商人達(シナ、インド、アラブ、ペルシャ)の手を経て西洋に到着する時には、金と同価の価格となった。しかしスパイス、とくに最高のクロ−ブ、ナツメグの生産地は謎に包まれ、幾世紀もの長い間容易にその姿を表さなかった。

スパイスナッツはかの船乗りシンドバッド(Sindbad of sailor AD1001) にも、マルコポ−ロの東方見聞録(AD1271-1293)にも書かれている程貴重な幻の木の実であったのだ。
クロ−ブ(丁字)は当時世界で唯一ヶ所、東インドネシア、ハルマヘラの西岸に点在するテルナテ、テイドレ、モテイ、マキアン、バチャンの五島の小島にしか自生していなかった。
テルナテには1257年に早くも強大なサルタニ−ズ Zainalabin 王が誕生していたことは、イスラム教国がスパイスを求めて東進するアラブイスラム商人達の辿った道と期せずして一致(スマトラアチェ、ムラユ、バンテン、マカッサル、バンガイ)しているのは興味あるところである。
バスコダガマのサンガブリエル号は僅か100トンと170人ではじめて希望峰をかわしアジアに来たが、ガマは「私はキリストとスパイスの為にここに来た」と言わしめた程、ポルトガルイスパニアの香料の直貿と独占への欲望は並々ならぬものがあった。その意欲が「地理上の発見」から植民時代として人類に多大な影響を与える事になったのだ。
最初にクロ−ブの木を見た西洋人はイタリア宣教師ルドビコデバルテエマと言われている(1506年)。マラッカの役人トレメスピエ−ルの報告書スマオリエンタルに'神はテイモ−ルに白檀を、テルナテにクロ−ブを、バンダにナツメグを与え給うたのみ'と記した。1512年のことであった。
1462−1515年、アルフォンソアルブケルケはホルムズ、ゴア、マラッカ、マカオを次々に手中にし独占の布石に成功したのは、ガマが最初に東洋の港に着いてから殆ど同時期で、この急速な商権確保はただひとつ火砲の威力に他ならない。それまでの商人達が誰ひとり強権を使わなかった友好交易は、この日からスパイストレ−ドは、ガンパウダーの轟音とともに新しい時代に突入していった。

1536年から4年間を、ガルバロが強権をもってこれら小島を統治したが、彼は(アメリカ産の)スイ−トポテト、玉蜀黍、トマト、パイナップル、パパイア、タバコ、レタス、チリ唐辛子を移植しこの地に広めた事も、特記すべき東西交流だろう。ポルトガルがテルナテ・テイドレの小島に侵入したのはチェンケの為で、これによりマジェラン隊は最初の世界就航者として歴史に名を留める。

ナツメグはその南のアンボンが集積地となり、住民疎外の激しい争奪戦が展開され、このリモートアイランド(遠隔な島)から列島植民が開始される。
1621年クーン(Jan Pireterson Coen)は、オランダ女王よりVOC長官に任命され交戦権まで与えられた。V.O.C.イ−ストインデイ、東インド会社の歴史は煉計、威嚇と掠奪虐殺の歴史で、1623年2月、英国の日本人傭兵又蔵他九人がオランダに処刑されたアンボイナ事件は、定めし邦人専門職では彼等が最初で 特殊技術(戦闘)を買われて鎖国直前に海を渡った日本人傭兵は千人ではきかない。
日本人傭兵(武士はおらず農民出)はバタビアやアンボンの町を二本差しで闊歩し、ナツメグ茂る楽土バンダネイラの住民全てを抹殺し移民によるプランテ−ションを作った先鋒は彼等傭兵で、この事件で主役は交代して英・蘭の覇権闘争は熾烈となる。傭兵の常で雇い主の違いから英・蘭の闘争では日本人同士が敵味方で戦う事にもなった。
1656年、「女王陛下の東」「永久なる契約」、 The Quieen of East,The eternal conpact 遂にグレ−トスンダ列島はVOCの膝に屈する。彼等傭兵のその後は、子孫も残さず砂に滴が沁みこむように埋没してしまう。

抜け目のないフランス人ピエ−ルポ−ブルが1770年、禁制の苗を持ち出してインド洋モ−リシャスに移植し、以後ザンジバル、タンザニアで栽培に成功すると、地球の果てマルクの価値が脅かされてくる。
オランダはこの富を死守する為、価格凍結(生産価格の380倍)減反、蔵出し制限で対抗するが、所詮市場までを押さえる事は出来ず、幻の香料諸島、バンダ海の宝はあっけなく消滅し、植民経営はコ−ヒ−、紅茶、砂糖、綿花の強制栽培へと進む。
歴史は移り、泣く子も黙るV.O.C.(Vereenigde Oostindische Co.)は、巨大な欠損を清算出来ないまま、1799年12月倒産する。スパイスなどの利益激減、強制栽培の失敗、軍隊経費増大、汚職、放漫経営。
歴史の証人のように、大陸からの支那人の航路沿いの海岸には多くの銅鐸や陶磁器が残され、アラブ人は最大のイスラム教を、ポルトガルはそれでも唐辛子やジャガイモ、トマト、パイナップルと混血児を残したが、オランダは火薬と銃器と、僅かなコーヒー豆を置き去りにしただけだった。
インドネシア共和国、現在この国は世界最大のクロ−ブ輸入国であり、最大の輸出国でもある。人々が好むチェンケ煙草(Kretek) の匂いが空港に充満して、栄光と挫折のスパイスアイランドに降り立ったことを知る。

 

 
 
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