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2 スマトラ アチェ バタック ミナン ランプン

グレート スマトラ
スマトラ Sumatra (Svarnadvipa - Gold Island - by Ramayana 3BC)
スマトラ出身者は自分をスマトラ人とは言わず、それぞれの地方名でバタック人とかアチェ出身と名乗るのは、この島の巨大さの証しではないか。
インドネシア大列島は学術的には西のグレートスンダ(スマトラ、ジャワ他)とレッサースンダ(バリ島から東)に区分され、地勢的にも気候的にも生物圏のみならず人種的にも大きな差違がある。東に行くほど種族と言語は細分化されてゆくのは未だに確とした論証はない。

グレートスマトラはバリサン山塊の三千b級の山々を背骨にして二千`、シアク、カンパス、ムシなどの大河が吐き出す広大なスワンプがマラッカ海峡を埋める。
インドネシア全陸地面積の25%、日本国の約1.5倍の面積があろう。
もしメデイアがスマトラ島と書くなら、日本は当然の事日本島か本州島と言わねば不公平だ。
スマトラは島ではなくその他の陸地と申して過言でない程広大である。
島の姿のように住民は雄大闊達で、それぞれの地方が一国をなすように強力で、言葉、種族性、風俗習慣が異なり、小さいジャワとは大きな差異がみられる。
列島へのインド、アラブ外来文明は、地勢的にも最初にこの地に上陸したから、その事実は文化だけでなく人種そのものへの影響も大きく、共通の習慣を宿していてもジャワ人とはやはり異なる容貌があり、彼等のジャワに対する内心の優越感は大きい。
共和国の現在は最大派のジャワ人が主流だが、「ジャワは子をつくるしか能がない」基礎資源である石油 ガス田 石炭 木材 電力などの多くをスマトラに依存している。スマトラ大島の共和国に及ぼす影響は、その人口も含めて今後益々大きくなるだろう。
スマトラには約四千万人(全人口の20%)25の言語100の方言を持つ12以上の種族が住み、石器時代以前の採集民族から、独立の英雄将軍 知的指導者 作家文筆家 芸能人 宗教指導者を輩出し、近代的教養を身につけた先進的インテリが共和国をリードしている。
名前がある種族だけでも、アチェ、アラス、ガヨ、バタック、ミナン、ニアス、シベルット、メンタワイ、マレイ、クブ、クリンチ、ベンクル、ルジャン、コメリン、パレンバン、ランプンなどきりがない。
もしはないが、もし共和国が分離独立して成功するのはスマトラの両雄バタックとミナン連合しかないと思う程その潜在力は大きい。
強固なイスラム原理に基ずくアチェ族、完成された独自文化を育むミナンカバウ、キリスト雄族のバタック、広大な土地に流入するジャワからの移民とこの地に多様さを齎している。
低地の気の遠くなるように広大な密林地帯には野性象とともに暮らすクブ族も、近来は縦貫するトランススマトラ道路で分断されて物乞いに転落したとか、クリンチ山塊には小人のオランペンデがマワス(オランウタン)より低級な暮らしをしているとか、広大な裾野を持つスマトラで、横断バスが小休止する夜明けの旅篭に降り立ってシアマン(手長猿)の咆哮を聞けば、開発が急激なスマトラだが、まだまだ自然の力が勝っている快感を感じられよう。
スマトラを書き始めれば際限がないので、雄族の一部を簡単に紹介しよう。

バタック人の定義
                    ひとりでは もの思いに耽ける
                       ふたりでは 唄う
                       さんにんでは 博打
                      よにんでは ひとりを食う

北スマトラ、狭義のバタック族のイメージは、トバ湖(インドネシア最大の標高900メートルのカルデラ湖で琵琶湖の二倍)を擁する精悍な山岳戦闘民族ではないだろうか。
首都のバタック人もなにやらそんなイメージで捉えられ、喧嘩といえばすぐその名前がでる程で、確かに大声でアクテーブな性質が時々誤解される。
ひと口にバタック人で総称されるバタック族だが、カロ シマルングン トバ パクパク アンコラ マンダイリン タパヌリなど枝族があるし、イスラムも多く一概には言えない。
天孫降臨神話から、Pusuk Buhit(1981b 臍山)に降り立った王が始祖とゆうことになってはいるが、人種的にはプロトマレー系先住民族で、同じ高地に住むスラウエシ・トラジャと同系だが、当時から圧倒的な人口があり弱小種族の範疇にはそぐわない。
シガレガレの木偶人形踊りをはじめ独特の土俗芸能が盛んなように、キリスト教伝来以前から、社会は文字、規範をはじめ独自の完成された社会を享受していた。
奇妙なことには、メダンの西南に住むカロ・バタック族には南インドタミール人の名前が多いCingkem Kubuculia Pardembanan。狭いマラッカ海峡は異民族の格好の上陸地点だったのだろう地名や人名にパナイヒンドウ仏教やベンガル・タントリック由来が多く点在するが、時の流れに埋没して謂れを語れる人はいない。霊能力者Jadijadianがトランス状態で祖先を呼び戻すから、それに耳を傾けるしかない。

ラグダエラ(地方歌)を語る時、トップに踊り出るのがバタックソングなのは、優れた曲だけでなく多くのバタック人が音楽界に君臨しているからでもあろう。それほどバタック特にタパヌリ人の音楽センスはいい。
それは一方の東の雄アンボン人とともに、キリスト教圏としての聖歌隊や讃美歌など日常の音楽生活によるとも言われているが、西欧旋律になじみ易かったのは確かだが、それだけとはいえず、特にバタック人は咽喉部が太く顎の張った骨格で、美人が少ない代償で歌唱力に富んでいるといったうがった意見も出るほど皆な声量がある。
爆発的咆哮、感情的落涙、力強く迫る歌唱は喩えようもなくイタリア・カンツーネも影が薄くなろう。犯されない独自性はバタック調と言うべきか、キリスト教圏といえども西洋調はその核にも入れないのは、その布教が十九世紀後で他地方と比べて日が浅く、強固な社会を保持していたからではないか。
巨大な太鼓や独特の多弦楽器で奏でるリズムは独自のもので、より古い民族芸能なども聞き惚れてしまう。木製のトランペット風の吹奏楽器も独特の音を響かせる。
ハーモニイには天性の素質がある。
ここに出てくる曲の多くはタパヌリで、バタックでもカロや南部のアンコラやイスラムの多いマンダイリンの歌は入っておらず今後の収集にかかっている。必ず珠玉の曲が眠っているに違いない。


バタックのカルバニズム

バタックはミナハサ、アンボンと並ぶキリスト教の牙城だが、その布教には名実ともの人身供養があった。
スマトラの高地に剽悍な種族が棲んでいるのは昔から知られていたが、彼等は閉鎖的で噂が噂を呼び近ずこうとする人はいなかった。バタック族が世に表れたのは極く最近の十八世紀になってからだった。
キリスト教布教は英・独・蘭各派の熾烈な競争の様相で、宣教団は既に完成されたイスラムの強い北の雄族アチェ、南のミナンや海岸地方は断念して、山深いトバ湖地方を選んだが、社会、文字、芸術を持つのと同様、文化として食人習慣を捨てなかった高地バタックに侵入者として食われてしまった。
神の恩恵を知らしめる布教活動とは申せ、ミッションのこの動機と情熱はどこから来るのだろうか。彼等のやり方は文字通り右手に剣、左手に本(バイブル)で一貫していた。

外国人として最初にトバ湖を見たのは、たぶん1772年英国人Charles MillerとGilis Hollowayが扇情的にバタック族の噺をしたのを受け、ベンクルーヘンに滞在した雇われ植物学者のWilliam Marsdenが1783年に峠を越え数日滞在したが、帰って来なかったのでわからない。1824年には英人宣教師BurtonとWardがシリンドウン谷からトバ湖に達したことは分かっているが同様の結果になった。
1853年オランダ言語学者H.N.van der Tuukが遂にトバ湖の渚に立ち、そして下界に帰還した。60年代になってもボストンから派遣されたLymanとMunsenが餌食になったのは、彼等が不用意に女性を捕らえたからなのが後日判明した。
ジェスイット派ドイツ宣教団の余りの人的被害を口実にして、オランダが介入した1872年からの戦争では、シンガマンガラジャを擁して1907年まで抵抗した歴史がある。
捕虜の魂の昇華を助けるとか、魂を貰うとか、恨みを残さない為、はたまた美味だからといって興味本位で語られるが、とにかくそれが文化だった希有の種族には違いない。
トバ湖に浮かぶサモシール島とその対岸のパラパットは高原にホテルが林立しスケールが大きい観光地として発展しているが、アクテイーブないかつい顔の物売りに囲まれると、昔の習慣など思い出されて穏やかではないが、誰でも皆いい喉を持っているのには驚かされる。

植民地時代から続くRijsttafel(Rice Table)、乙女が一人ひと皿の献立を客に供するコロニアルスタイルで有名で、ジャカルタを訪れたら必ず立ち寄るスポットのオアシスレストランは立ち並ぶ乙女たちをバックにバタック・バンドが壁も割れん大音声でインドネシアソングを披露している。やはりスギ(四角顔)の美声だ。

僅か百年たらずの間に、古い規範を捨てて新しい価値感のもとに、民族独立の英傑を輩出し共和国に多大の貢献をするバタック人の調和性に感服する。
バタックは人口約310万、徹底した父系氏族社会でマルガ(姓)を持ち、トビン ナステイオン ステモラン ハラハップ、シレガルなどの大ファミリイがいる。
性的忌避が徹底していて、男児は実母とも直接会話することはなかった。
野卑ともいえるアクテイブな性格から、兵士や交通関係、国軍に将軍も多数で、都市のバスターミナルなどは血の気が多いバタック人の勢力圏だ。
共和国第三の都市メダンは周辺地方の石油採掘の拠点で膨張を続ける。
明治維新後日本人として最初に今のインドネシアを訪れたのはシナ人妾トメで、そこはバタヴィアやスラバヤではなくメダンだった。
カロ族の天国避暑地ブラスタキは、もしかしたら共和国一のリゾートではないだろうか。しかし、この国でなんらかのアムック(暴動、集団狂気)が起こるのはメダン、ポンテイアナク、マカッサルだといわれる。

表面物静かで控えめな振る舞いが望まれるジャワ人からは、声高で動作の大きいバタックは野卑に受け取られ評判はいまいちだが、その行動力で共和国を引っ張っている感なきにしも有らず、はっきりものを言うから、むしろせっかちで気の短い江戸ッ子とは相性がいいだろう。
酒も呑むことだし。


西スマトラ ミナンカバウ
                     ミナンカバウ人の定義
                   ひとりでは 故郷をあとにする
                  ふたりでは パダンレストランを開く
                   さんにんでは 契約書をつくる
                     よにんでは メッカ巡礼

グレ−トスマトラ、バリサン山系(G.Kerinci 3805M G.Singgalang 2877M G.Marapi 2891M)の中央高地、赤道直下に広がる西スマトラ州(42,203q2≧九州)がミナン人の故郷で、ブキテインギ(コタアガム)がその首都である。別称ミナン、パダン、Awak、約五百万人。
ハイランドはアガム、リマプルコタ、タナダタ−ルに、ロウランド四百粁の海岸線には、経済の中心パダン市とバイユ−ル港、タビン空港や旧港パリアマン、沖合インド洋にシベルット、パガイ諸島が、南にはスマトラ最大の自然保護区クリンチが広がる。

ミナンカバウ人のふるさと
スマトラ(Svarnadvipa 金の国)のスリマハラジョデラジョ(栄光の王の王)はアレキサンダ−大王の第三子で、マラピ山の山頂に碇を降ろした国造り伝説がある。
五世紀スリウイジャヤ仏教交易王国が南スマトラに勃興した前後から、この地は金産出地として知られて、スリウイジャヤの富はこのミナンの金で賄われていたとゆう。
スルタンパガルユンがバトウサンカルに強固なイスラム国を建国したのは、インドネシアにイスラム教が渡来したといわれる十一世紀を遥かに遡るとゆう説がある。
アディタヴアルマン王(ジャワ人混血)が数々の碑文を残して歴史に登場するのは十四世紀であるが、前歴史時代に既に文字文化(解析不能)がある事が知られている。
ジャワとの戦いで勝利した故事から'Menang Kerbau勝利の水牛'が種族の名となったと言い、女性の髪飾りは此処だけの優美で大きなタンドック(角)を形取っている。
カユマニス、ダマ−ルなど森の富は、マラッカ海峡に注ぐ両カンパス、シアク河を経て交易された。
この地が内陸であるにも拘らず地名にムアラ(錨地)を冠したり、古謡の詩に舟、舵、櫂の比喩が多いのも広範囲な流通があり、流域地方から海岸線にはミナン語が使われて
ムラユインドネシア語の祖語になった程の影響力を持っていた。
下って胡椒貿易では早くからインドアラブとの関係が深まってゆく。
それらの富が西欧植民の干渉を余儀なくされるが、1818年かのスタンフォ−ドラッラルズがこの地を訪れ、農業商業など社会組織はジャワをも凌ぐと称賛した。
現在共和国の町々を歩いてもこの地方程清潔な地域は見当らない。
土地は厳しい沈下隆起が見られ、切りたつ断崖や渓谷はンガライシアヌク、マニンジャウ、シンガラックの景勝地を生む。そここに天に聳えるルマミナンの壮麗な甍は民族の歴史と重みを誇らかに謡いあげているようだ。

敬虔なイスラム信仰に支えられ、自由闊達、進取の気性に富み、率先して己れの可能性を求めて外領に出る風習(ムランタウ)があり、マレイシアネグリスンビラン建国、南スラウエシイスラム教化をはじめインドネシア全土にその足跡のない処はない。
はじめ山(ダラット・地)を下って平地(ランタウ・パシシール海岸移住)に植民して、現在の州都パダン市(平野)を建設したのだ。
飛行機で移動してはわからないが、スマトラは緑の大海で、これから行く遥かな地を、
視界に広がる果てしない緑の魔界を眺めて想いを巡らすプランタウ(旅人)にとっては、勇気の要ることだっただろう。
今でこそトランススマトラロードが貫通し、長距離バスが唸りをあげて結んでいる(首都から30時間)が、すこし昔はインド洋を船でゆくのもまさに命懸けの旅だった。
計数感覚は華人以上の商才を発揮し、この国の流通に深く関与しているばかりでなく、
首都ジャカルタの大市場スネン、タナアバンは彼等の縄張りで、パダン語を使えば同郷心で「Den Siko(Saya Disini私は此処だ)」半値になろう。
独立時代にも多数の政治思想家を生み、 1958年〜61年共和国革命政府(PRRI)を樹立し一時期ブキテインギが共和国首都だった事でも知れる。初代副大統領ムハマドハッタを始めボンジョル、シャリフデイン、また現代の良識を代表するアブドウルムイス、アリフィンベイなど多くの著述出版家を輩出している。
 ミナンカバウは世界でも希有な母系社会が基盤で、その慣習(アダット)とイスラム原理主義との相克から男性には制約の多い土地柄が移住(ムランタウ)の動機を助勢した説もあるが、現代のアダットはゆるやかな形で存在し、生活規範は確固としたイスラム法に準拠する。
ジャワに多い輪タク曳きも、この地では「なんで人が人を運ぶのか」と荷物運びしかいない。女中になるよりはと行商にでる。バブ(お手伝いさん)を探すのは至難だ。
プサカ(財産)は母から娘へ、ハルタ(資産)は母系の男性(ルマママック)に引き継がれ、親族代表は母系の長老男子が握る。古くは夫は母方の家を守り、いわば通婚(入り婿スマンド)で発言力はあまりない。初婚での離婚率は三組に一組の多さだった。
他種族はパダン人の商才と母系を、けちでかかあ天下と囁くのもむべなる哉である。   

ミナン族にはその黎明期から血縁、即ちチャニアゴ、タンジュン、グチ、シクンバン、シンクアン、ジャンバックの六系統が厳存し、現在に至るも同血縁(スク)での婚姻は禁畏でる。恋に落ちる前にスクの確認が要る。最も望まれる婚姻は従兄妹で、望まれない他種族との結婚はさて措き、異教徒では生涯故郷と家族を捨てる覚悟が要る。
パダン人は百パ−セントイスラムで外はない。
どの家系にも双子が多い。インドネシアには稀なA,AB血液型が多い。
姓名は当然イスラム名でマルガ(家名)はなく、姓名の後に父の名を付ける事がある。
子女教育は全国有数で、学校授業の外ムガジ宗教塾にも強制的に通学させられる。
文筆業や出版、教師が多いのも教育水準が高いのが理由であろう。
民族自立、独立の気運は、この都の郊外のコトガダン出身者がリードした。ちょうど維新の萩に似ている。反蘭運動に転化したパドリ戦争でこの村が親蘭だったことから、植民政庁の厚遇を受けて教育が進んだ青年達で、オランダにとっては皮肉な結果だった。

ミナンの家は際立った美しい様式でも群を抜き、共和国の紙幣にも登場する。
巨大な柱は上部に開く特殊な構造で、七重の黒いイジョウ草の屋根を支え、家屋は家族そのもので、娘の数だけの独立した居住区がある。何処に住もうと故郷のルマミナンが帰るべき場所で維持される。家屋の崩壊は家族のそれを意味している。
雲界を抜けて峠を下ると、朝霧霞む視界にルマミナンの壮麗な甍が望見されれば、その様式美からくる威厳で圧倒される程だが、近来高額の維持費から、トタン葺きが多くなったのは惜しまれる。

マサカンパダン(ミナン料理)は今ではインドネシアを代表する料理だが、パダン人の移住の橋頭堡であり、その濃厚なスパイスの味は全国を制覇した。
動物性蛋白質脂肪摂取は全国一、そのせいかパダン人には偉丈夫が多い。
牛肉ココナツ煮から脳オタック、肺パルパル、腸ウルス、蹄まで一日以上かけて料理し、女性の価値は豊富なスパイス味で決まる程であり、レンダン、パゲ、デンデンなど、それにカリオと呼ぶカレ−料理もある。レストランには数拾の皿が供され、客は食べた皿だけ支払う式である。ジャワ料理より値が張るのは食材の差であろう。
女性の民族衣裳も大きな特徴があり、ジャワなどのレ−スのブラウスとカインバテイック(蝋結染)ではなく、絹の厚地に金銀の縫い取りのある丈の長いもので、水牛の角を形取ったといわれる被りもの(タンドウック)を被り、美しいインドネシア女性の中でもひときは際立っている。ジャワ人とは異なり、面長な彫りの深い顔つきが多いが、衣装はイスラムに則り身体の線は出さず、男女席を同じゆうせずは徹底しており、会合では夫婦でも別れて座る。招かれても夫人は同席しないから、余計に神秘的に感じる。

ミナン語はインドネシア語の母語といわれる。文法は同一だが、日常単語や発音は異なる。辞書にMとあるのはミナン語が原語の表示である。AをOと発音し語尾Hの無声音、吃音、破裂音の発声が強い。
歌詞の訳出ではその環境習慣の違いによる日本語表現困難な箇所も随所にある。

ミナンパフォ−マンスでインドネシア化されたものが多い。プンチャクシラット(剣舞)タリピリン(皿の踊り)扇の舞など此処を発祥として全国に広がった。パントウン(四行詩)も同様で、現在でも男女の交流にこの詩形式が常用されている。
音曲では各種の竹笛(就中小さい縦笛)太鼓(nalam,randai,bakaba)は独特の音色で秀逸である。イスラム詠唱も盛んで多くの専門歌手がいる。


孤高の人 アチェ
近頃アチェの騒乱がメデイアの紙面を賑わす。 東チモール、パプア・イリアン、各地に続発する騒擾事件で共和国は解体分裂の危機にあるように見て取れるようだが、アチェの独立運動と他地域の反政府運動とは大きく異なる。 アチェは筋金入りだしその影響力も雲泥の差だ。
チモールは(地勢民族的に隔たりがあるかないかは別として)独立当初から共和国領土外の土地として認定されていた。植民地独立での大部分の地域が旧宗主国の主権範囲を独立時での国境として策定し、チモールはオランダ領ではなくポルトガルだった事による。
パプアイリアンも独立時その帰属が判然とせず、イ・蘭両国の武力衝突にまで発展し、国際機関の調停で69年スカルノが住民投票によって正式にインドネシア領になった。
五千米級の峻険な山岳に分断された日本本州の二倍の面積に言語も全く異なる百万人ほどの住民の総意をどうして取り付けたのだろう。このことは現在のパプア独立運動にも同じように指摘できる。 極楽鳥の旗をいったい幾人の人が知っているのだろうか。
チモールは80%以上の投票率に疑念もあるが独立を選んだのも、両者ともどのようにして独立国の権威を維持が出来るのだろうか。当初から諸国の援助と保護を期待しての独立ならその栄光の名前は使えないのに。

アチェの誇り
アチェはそれら地域とは根本的に異なる。その地の利、資源、種族意識。
インドネシア諸島の最西北端、人類の三大文明が洗う渚に位置し、太古から強大な諸民族が偉大な文化を持って訪れる最初の上陸地点だった。アチェ人もまたインド洋を越えて遙かマダガスカルにまで移住して言語文化を広めた。 
ヨーロッパ人が強欲で干渉する遙かな以前からインド、アラブの交流の方が深く密だったのは想像がつく。思考から社会成立までヨーロッパとは相容れない価値基準が強く浸透していたから、オランダ植民軍と悲劇的な戦いが半世紀も続くが屈しなかった(1873から1912)。
独立後も数少ない特別州(Daerah Istimewa)として腫れ物に触るような特別扱いをされてきたのは、東西世界交通の要害であるだけでなく、地下資源の宝庫で此処なくしては共和国予算を賄えない事情にもよる。
アチェはオランダ傀儡軍隊のマナド、アンボン、ジャワに滅ぼされた怨念は抜けてはおらず、スハルト独裁で国軍の弾圧も激しく、土地の富の大半を奪われる強迫観念も強い不満がある。 アチェ闘争をどのような形にせよ収拾しない限り、共和国の安泰はあり得ないが、なにしろ筋金入りだから簡単には懐柔は出来ないだろう。 アチェを見くびった政府の失政だ。

アチェ人は強いイスラムで此処だけのイスラム法があるから特別州なのだ。
長い混血のせいか驚くほどの美形もいるが、イスラム法に則り対処しなければ些細な行動でも大罪になるから身が引き締まる。首都にも勿論アチェ人は多いし極く普通の人たちだが国元に帰ればまた違った顔があるのだろう。


 
 
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