慢学インドネシア {広すぎて困っちゃう} お国柄
 
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4 スラウエシ マカッサル ミナハサ(そよ風の街)

Kの字の島スラウエシ
広いインドネシア列島のほぼ中央に、奇妙な"K"の字の形で横たわるスラウエシ(旧セレベス)は、多様性での調和を国是とする広大なインドネシア共和国のなかでも、その姿のように地質学はもとより生物、民族学の分野で最も変化に富み、世界でも特異な注目を集める島です。

その昔創世のとき、神が人間に'それぞれの岬の方向に散りそれぞれの国を造れ'と命じ、今の世になったとゆう昔噺ロンタラ@があるように、四方に岬を伸ばして総面積189,216平方km、日本本州の八割の広さのスラウエシの活発な地殻変動が、このような特徴ある島を形造っていて、これは狭いマカッサル海峡を挟んだお隣のカリマンタン大島の安定さとは極端な異なりがあります。
スラウエシには約一千万人が住み行政区は北、中央、南東、南の四州で、それぞれマナド、パル、ケンダリ、マカッサルが州都で、有数のニッケル鉱、貴重樹黒檀紫檀やロタン産地として政治的に遅れた開発に拍車がかかろうとしていますが、人口分布は片寄り北のミナハサと南のマカッサルに集中して、その他の地域の密度はまばらといっていいでしょう。
赤道が島の北を横切り、ランテマリオ(3455 m)、ラテイモジョンなど三千米級四峰をはじめ、ほとんどが活火山を含む山岳地帯で、東のトミニ湾は、過去の大噴火で出来た湾ですが、1983年湾内の小島ウナウナが爆発し消滅してしまったほどです。
自然は複雑多様で、深いトウテイ湖 広いポソ湖 雨季に大きく面積を変える浅いテンペ、 リンボト湖、年間雨量も高地トラジャ・ランテパオで4000 mm、 ひと山越えたパルーでは500 mmと大きな差があり、火山地帯には各所に温泉が吹き出す一方、広大な熱帯多雨林、アルンアルン乾燥草原、石灰岩カルスト地帯、珊瑚礁、マングロープスワンプとまるで地質学の博物館の様相です。

半島間の交流は峻険な山々で隔てられ海路のほか道はなく、先ごろ貫通した縦貫道路も地殻変動でしばしば崩落し、住民は孤立して暮らしてきました。
北の700 kmに及ぶ世界最長の岬の先端のミナハサ族がプロテスタント信仰を、南のブギス・マカッサル族は有数のイスラム国として習慣も性格も大きく異なり、とても同じ島に住むとは思えない相違があり、山間部には特異な祖先儀礼で知られたプロトマレイ族トラジャをはじめ、中央山地ベソア、バダは未開地帯で磁石も役にたたずパリンドと呼ばれる巨大な石造人物遺構が林立していても未調査です。
水上民バジャウ、森の人トアラ族などまだ原始が密かに息ずいているといわれ、話す言葉は三十言語以上、勿論風俗習慣は固有で多彩です。

マナド 箱庭の町
その北の岬回廊は幅が20`たらずで長さ700`も大洋に突出して東端チップ、プロテスタントの牙城ミナハサ州は共和国最北で、日本に最も近い距離に位置しているのにシンガポールからもジャカルタ経由でも、バリからでも二日はかかる遠い国なのは直行便がないからです。
この辺境ともいえるミナハサ地方は、植民時代から現在に至るまで、特別な地位を得てきたのがむしろ不思議な感じがします。此処はインドネシアの中で違いが目立ちます。
"私達は(ジャワとは)違うのよ"と、オランダ第12番目の州を自任して、この間までまともな家庭はオランダ語を常用し、サロン腰巻きをしたがらず、男はソフト帽、女はレースで着飾って日曜ミサを欠かさない植民が最も成功した地域で、植民地時代に多くのマナド人がオランダ中間行政官に登用され、南のマカッサル・ブギス人から「太平洋の水ぜんぶ飲んでもお前達の血は変わらない。ブランダ(オランダ)の犬」とまで罵られても、オランダ流に憧れたのも、ミナハサ族がおおらかで楽天的性格を生む豊かな自然環境があったからかもしれません。

Wallas Line
この地を訪れる人々の大半は西から来て西に帰る。ここから先東は何もありません。
スパイスナッツ争奪戦の主役テルナテ・テイドレは指呼の間ですが忘れられて幾世紀、暗黒のパプアも遠く、その先は茫漠とした大海原が南米エクアドルまでの水球が広がります。

千切れ雲を通して、乳房のようなマナドトウアが蒼い湾に起立し、緑の絨毯に白い家並みが散在するのが俯瞰できるのは、このサムラトランギ空港Aが2000bのクラバット山をかわす難しいアプローチで、機が大きく傾いているのだとゆうのを忘れさせてくれる程美しく、空も風もジャワやバリとははっきり違うと感じられるのは、近代自然科学の門戸を開いたダーウインの種の起源(Charles Robert Darwin (1809~1882) The Origin of Species by Means of Natural Selection 1859刊行)に多くの示唆を与えたA.ウオーレス卿(1823~1913)が、アジアとオーストロネシア生物境界線ワラスラインをこの地で想定した事で一躍世界的となり、この海峡の東にアジアを代表する虎や象などは生息せず有袋類の世界で、そう言われればマカクー猿の顔も違って見え、ウオレシアの生物相はこの島だけの始祖牛アノアやバビルサ(豚鹿)、世界最小猿タルシウス、有袋類クスクス、巨大卵を地熱で孵化させるマレオなど、昆虫や蝶の新種は多く生物学者垂涎の地で、茶色のジャワから藍色のミナハサに来たのを知るのです。
1998年夏、それまでコモロ諸島沖でしか発見されなかった一億年昔の生きた化石魚シーラカンスが、なんと此処の魚市場で売られていてセンセーションBになりました。 もしかしたらタスマニアン・タイガー(袋狼)もまだひっそりと息ずいているかもしれません。
まさにスラウエシこそアジアの終点で、この地から新しい異なる世界が展開するとも言えるでしょう。
箱庭の町 マナド
サム・ラトランギ空港を後にゴルフ場を右に見ながら長い坂道を下れば、そこには小さな英雄像が立つ小さい広場、小さいバスが群がり散ってゆく。ガリバーの小人の国に紛れ込んだ気持ちにさせられ、可愛いい箱庭の町マナド。
オ、イナニ ケケ(ちょっと、お嬢さん)は甘い曲で、地方歌としても国民みんな知っているナショナルソングになりましたが、はじめ、それだけのもので大した感慨はなかったものが、ひとたびそのふるさとの、遠くフィリピンに近いミナハサはマナドに降り立って、改めて歌はその地によることを実感し、謡い継がれる歌には何かが宿っているようで、以後この名曲を聴けば、港に通じる坂道を、可愛い女の子が若い衆に冷やかされ、ニッコリ笑いながら、転ぶように駆け下りてゆく後ろ姿が想像できるし、そんな美しい風景がマナドの街のあちこちで見受けられたのです。少女のような、ミナハサなのです。
マナド娘は共和国最高の色白美人とつとに名があるのは、長い外国混血のなせる技で、それは長大な半島が大洋を二分して海原に突き出ている土地ですから、西洋人が渡来する以前も、香料や南海産物を求める華人商人の海上航路の拠点として、多くの人々が往来し、ミナハサの人達の姿を見ればマレー人とは異なる血が歴然としています。
古い南海航路の物語は地下から夥しい陶器が掘り出され、人の皮膚の色に表れているだけで殆ど消滅してオランダ介入からこの地の歴史が始まったといっていいでしょう。
多分、此処はミンダナオ系のネグロイドが先住したカルバニスト(食人)国だったのでしょう。シナからモンゴロイドが南下して血を残し、イベリア人がコーカソイドを与えオランダと移民インド人が神のお手伝いをしたのでしょうか、がっしりした短躯色白な人と長身痩躯彫りの深い容貌の人が己の血の謂れも知らず暮らしています。

トルデシリャス条約で地球を二分したイスパニアとポルトガルはC、スパイスを求めて西と東からこの地域に殺到し、フィリピンから南下したイスパニアがミナハサに侵入しました。香料諸島テルナテ、テイドレは此処から眼と鼻の先だったからです。
ある期間の横暴に耐えたマナド人達は、力を付けた新興勢力オランダに助けを求め、1673年にロッテルダム要塞を造り(日本軍の爆撃で焼失)、VOC(オランダ東インド)の庇護をうけることになったのです。
以後の親蘭は変わらず、反植民地民族主義のリーダー達はこの地に流刑になったのです。ジャワを追放されてこの地に流されたデイポネゴロ王子に従ったジャワ人達(1830年)の子孫はいまもカンポン・ジャワ村に暮らし、宮廷人の優雅さとマナドの西欧風が巧みに融和して最高の女性といわれているのもそれなりの理由があるようです。

オランダは殖産に力を注ぎ、独立時ここには千人の児童にひとつの学校がありましたが、ジャワのそれは五万人だったのをみても、独立後半世紀でその格差が解消できるとは思えず、彼等がジャワや他の地域の人に対し知的優越感を持っているのが感じられます。
マナド人はラマイラメイ(お祭り好き)で見栄っ張りで、身上を潰すと陰口も聞かれますが、マナド人は遊ぶお金もない人(ジャワ)の僻みと意にも介しません。こんなちっぽけな町に競馬場が四つもあるなんて。
ミナハサは現在は輸送交通環境の変貌で低迷していますが、それでも共和国一の教育医療環境を保持して、今もって一番の富裕県なのです。なんといってもコプラ油脂、チェンケ(丁子)、ゴム林、コーヒー、米、野菜などないものはない豊かな土地だからです。チェンケ市場が暴騰した時、テイノール村は景気に沸き立ち、電気もないのにGEの電気冷蔵庫を庭先に飾って見栄を張ったといいます。

太平洋戦争でダバオを飛び立った日本軍は、マナド・トンダノ飛行場に落下傘降下し激戦の後制圧し、空の神兵Dとゆう歌まで唄われた時代、兵士との混血児もスマトラアチェより多いのはこの地方の寛容さを物語るのではないでしょうか。
マナドぼけの日本人は多く、マナドはミナト、ミナハサは皆様、トンダノ トンシェ トモホンの村名のトンは人、東のゴロンタロは五郎太郎入植の地と日本との関連をなんとか結び付けたい気風がある程、大和撫子に見まがう美女も希ではありません。
マナド人がオランダの犬でなかった証拠に、植民地時代の民族主義の知的指導者サムラトランギを生み、統一国家実現に貢献しました。
共和国の腫れ物の華僑同化問題でもこの地は昔から融和していて、マナドチナと呼ばれて違和感がないのも土地柄でしょう。

1 最も古いルウ王国−現在のパロポ−の天孫降臨神話叙事詩ラ・ガリゴは、ロンタル椰子にブギス語で刻まれた
  膨大な写本ロンタラで、13世紀以前の最大級の文学資料といわれる。
2 G.S.S.JRatulangie (1891-1949) ミナハサの伝統的支配者層出身、オランダ留学、チューリッヒ大学理学博士。
  帰国後民族運動を指導、民族評論に健筆を振るい統一国家実現に貢献した。マナド空港、大学、道路などに
  その名を冠す。大の親日家。初代スラウエシ州知事。
3 ミナハサの沿岸はいわゆるドロップアウト(急深)で、リーフから一挙に深水2千米に達する。昔から化け物魚の
  噂は多かった。 シーラカンスが発見されて、この地域の特異性が再びクローズアップされた。海だけではなく陸
  にも新種発見のチャンスは多い。
4 1494年 イスパニアとポルトガルで結ばれた海外領土分割条約で教皇子午線で両国の領地権を東西に二分し
  た。 イスパニアは東インド経営を諦らめ南アメリカに専心、ポルトガルはブラジル領有の根拠となった。
5 ♪ 藍より蒼き大空に大空に、たちまち開く百千の、真白き薔薇の花模様、見よ、落下傘空を往く、空を往く♪

ブナケン リーフ
アメリカでの医学留学を終えたドクトルバトウナは、郷里に広がる珊瑚礁を初めて紹介したのが世界有数のドロップアウトを持つブナケンリーフで、ダイバー仲間では"ブナケンを潜らずダイビングを語るなかれ"と言われる程のスポットになりました。
マナド沖に富士山ミニチュアのように海上に聳えるマナドトウアとマンテハゲに囲まれるブナケンは、町と指呼の間にありイスタナドウユン(竜宮城)もかくやの美しさです。
マナド人は「ブナケンも数あるもののひとつ」といって驚きもしないのは、複雑な海岸線を持つ岬の至る所に小島や入り江が散在する'箱庭'なのです。
山上湖トンダノから少し入った山の麓にワトウ・ピナベテンガンの霊岩が鎮座します。
少し昔に一人の農夫がお告げを受けて、ロットレ(数字当て富籤)を当て続け、それを元手にマカオに繰り出し、胴元を破産させて凱旋し連日新聞に書き立てられました。挙げ句自分の死期も予言して、あぶく銭をすべて教会に寄進して予言通りそうなった逸話と、この存在感のある巨岩の信者たちの幸運がしばらく続いたのです。政府高官もしばしば卦を立てに訪れるそうで、もしかしたら夢は珊瑚礁だけではないようです。

マナドの街もスパイスナッツのチェンケ時期には一帯がえもいわれぬ香気に覆われ、コリンタン木琴の音もまことに女性的で、西からひしひしと寄せるイスラム圏から訪れると、行き交う人々チャペルの鐘の音、なぜかほっとさせる気分になります。
狭い岬には港町特有の坂道に花が乱れ咲き、肥えた馬車の鈴の音、ドウアスダラ、タンココ、バトウアングス、グヌンアンバン、ドウモガボネなど自然保護区は共和国一、山頂湖トンダノ(標高600b、)とあわせて公園の中に住む趣き、町内のロコン火山や郊外のソプタンは時に噴火(1986・89)しても随所の温泉の湯気で帳消しになるようです。
ブトン港は水深、良水で対岸のレンベ島が風を遮り、浅瀬だらけの南海では最上の船溜りで、イスラムではなく飲酒は自由、美女が侍れば船員には忘れない港でしょう。

箱庭の岬は何処に行くのにも車で半日もかからず、砂浜で火照った身体は少し丘を登れば涼風吹く高原で、住民のホスピタリテイも含め、観光ポテンシャルは高いと予感されます。マナドでは蝙蝠や犬、椰子鼠までおいしく料理しますが、それもエスニックフッドになるでしょうか。

外来文化受け入れに何の抵抗もなく、中央志向は非常に強く首都ジャカルタに憧れ、デイスコもダンドウットとロックしか聞けず、すばらしい韻を踏んで優雅に唄われる地歌の消滅した速さで、この小民族文化も消えてしまうだろうと大きな不安があります。マナドの20万人も外来人で純血は減少しているらしく、なにか華奢で壊れ易い箱庭都市の姿に見えます。
ミナハサは犯され易い限りなく女性的な印象が拭えません。歌にもキリスト教会の影響が強いいい子ちゃんで、グレジャ(教会)聖歌グループも盛況ですが、コリンタンの音と同じでパンチに乏しく、マナドは限りなく女性的なのです。


そよ風の街 マカッサル
サーA.ウオーレスが東西生物境界線としたワラス・ラインで隔てられたスラウエシからはじまる東インドネシアは、動植物のみでなく、人間文化でも西方のジャワなどとは大きく異なっている感がします。日常の暮しでは今ではもう見えませんが、国土の中央にこのような相違が内在している国は世界でもそう多くないと思います。 東インドネシアはインドネシアであってインドネシアではない異国です。
世界三大文明ヒンドウ、イスラム、キリストも及ばないファーリモート(遠隔の地)と申しては大袈裟でしょうが、古来スラウエシから東の地域は稲作文明ではなく、サグ椰子圏なのでした。
稲作社会はその水管理から組織が生れ、過剰人口を養えることから、ジャワのような王族僧侶など特権封建体制が生まれましたが、サグ椰子澱粉は低湿地なら何処でも誰でも簡単に採取できる最高の食材ですから、管理も要らず上意下達の強権も不要、それに東に行くにつれて熱帯多雨林は乾燥して大人口を養える余地はなく、人々は小さいコミュニテイで自由気侭に暮らしていました。 、マルク州などは外敵(ポルトガル、オランダ)の干渉があるまでは、ひっそりとその日暮らしでも平和な暮しだったと想像できます。

この異境の外界との接点の西の関門が、最強軍団南スラウエシ・マカッサル人の国があったのです。
東方の海産物と富を運び、肥沃な南スラウエシ平野に稲作を導入した多人口は、スマトラからイスラムを導いて、強固なサルタニーズを築き東方の富はマカッサルが支配しました。
今でこそマカッサルは南スラウエシの州都共和国第七位の大都市で、東インドネシアへの門戸として、ハサヌッデイン空港は最大のコネクテイングポートですが、この地の利から、西方のジャワそして異国の干渉が出会う最初の橋頭堡で、異文化の吸収もさりながら、血塗られた戦いの場となっていったのです。
そよ風の街と詠われる大木並木に彩られる古く美しいマカッサルとは裏腹の、恩讐の長い歴史があったのです。

スラウエシでは最も大きい平野がある穀倉地帯南スラウエシ州は人口も稠密で、マカッサル、ブギス族の故郷です。
世界的にその名を知られたマカッサルは、反骨精神が強く、ジャワ人の支配を潔しとしない伝統があるので、大統領スハルトは唐突にも、1971年この由緒ある街をウジュンパンダンと名前を変えてしまいました。学者達がパンダンの木の茂る岬と来歴を述べても、マカッサルはマンガッサラでしかなく、住民のストレスは消えませんでした。
新大統領ハビビはウジュンパンダンの北パレパレ出身でその事は知っており、辞任する一ヶ月前に置き土産として元のマカッサルに市名を戻しました。ジャワ人の呉れた名前ウジュン・パンダンは地図から消え、市民は彼の唯一の善政と喜んだものです。

そよ風の街として全国的に知られた名曲アンギン・マミリ(そよ風)、幾多の歴史を秘めたカユアサム大木並木にそよ風が渉り、暮れなずむ街並みにイスラムマグリブの祈りが流れ、ロサリ海岸を茜色に染める落日の息を呑むような美しさは、定めしこの街が誇る風情でしょう。
Angin Mamirri、それは窓を開けて、沖に帆走る恋人にそよぐ風に想いを託す恋歌と思っていましたが、実は監獄に捕らえられたパルチザンの恨み節だったのを知り、憮然としたものです。
街は空路海運交通のターミナルとし発展を続け、現在80万人以上が住んでいますが、やはり昔からの海洋航海民族であり、共和国の海岸地域から遠くマレー半島に至る内海航路は、マカッサル・ブギス族が占めて各地の港ではお国言葉が幅を利かせています。

スルタン ハサヌッデイン
マカッサル王がバンダ、アラフラ海の富を握る、この事がその後の西欧列強の過酷な干渉を受ける結果になったのです。
現在は昔程の繁栄がないのは、産物(なまこ、真珠、鼈甲など海産物)需要が変化したことや、中国から南東への南海航路と言われる海の道が衰退したのが原因ですが、飛び魚の卵やてんぐさが、日本市場で爆発的に売れてトビタマ御殿が出来たり、日本向けマンモスタンカーの新航路が開設されれば、再び往時の繁栄を謳歌する都市になることでしょう。東方インドネシアの発展にはこの街は欠かせない存在に変わりはありません。

この地方は共和国の中でもイスラム教信仰が厚く、西スマトラ・ミナンカバウの導師の布教によってマカッサル・ゴア王が入信(1605年)して、各地にルウ、ブギス・ボネ、タロなどのイスラム王国が生まれ、ゴア16代覇王スルタンハサヌッデイン(1631-70)は、侵略者オランダをして'東に雄鶏あり'と怖れられたのも、バンダからアラフラ海の海産物の交易で、インド、アラブ、中国商人も含め十万の人口の国際商業都市を死守する為だったのです。当時のバタヴィアでも一万人いたかいなかったか、大きな違いです。
「海に境界線は引けない」とゆう名言も、1669年オランダのスペールマン提督率いる砲火とボネ王の姦計ブンガヤ条約で、ゴアの都ソンバ・オプ1は挟撃され、街は徹底的に破壊されフォートロッテルダムの醜い名前になってしまいます。
海洋航海民の令名は広く列島に知れ渡っていてピニシAランボ パジェロなど帆船造船技術も突出していますが、古老は「陸に住めない日々があったからさ」と呟くほど、潮の香渉る風情とは裏腹な、血塗られた過去が秘められたマカッサルなのです。
王国同士の戦いは絶えず、男は子を成せば勇んで出陣したから「マカッサル人は戦う以外は寝ている」「バタック人は勝ち負けを考えてから。俺らは死ぬ為」 強い男性社会で、名と恥の為には死の代償が待つシリッBの定めは、他郷人には理解出来ない物凄さです。
オランダはこの地の重要性からロコモビル(軽便鉄道)を敷設したり、道路を整備しましたが、残っているのは大木並木と簒奪拠点ベンテン(保塁)だけで今は博物館になっています。
太平洋戦争時代には日本海軍基地になり僅かの期間軍政がひかれました。
独立潰しの植民地軍ウエステルリング大佐は1949年暮れに独立派弾圧でこの地に逆上陸し半年たらずで六万人を虐殺しました。逮捕された時「短期間でそんなには殺せない、せいぜい四万だ」とうそぶいて一層オランダ憎悪をつのらせたといいます。
独立後もダルルイスラムの流れをくむカハル・ムザッカルの反乱Cで治安の回復は60年になってからで、この鎮圧司令官がスハルトだったこともあって後の開発が遅れましたが、元国軍総司令官アンデ・ユスフ将軍はブギス人でしたし、新大統領ブハルデイン・ハビビはウジュンパンダンから100 km 北の美しい港町パレパレの生まれです。
独自の文字を持ち、強烈な民族的個性がある彼等にはジャワの人達も一目おく程際立っています。マカッサル族にはカラエン ダエン、ブギス族はアンデ、ルウにはオプの尊称が与えられて過去の身分は隠然たる影響力を持っています。その歴史の証人ともいえる支那交易でのチャイナ(陶器)が数多く発掘され好事家を喜ばせます。
女性達はイスラムの定めから控えめで、男女の決まりは厳しく規制されて秩序がありますが、彼女たちが着る民族衣装は南アジアで一般的なサロンの発祥の地といわれ、ここではバジュ・ボドと呼ばれます。高原地方のソッペン、シンカンの絹で織られるチェック模様はステイタスで、蝉の羽にみまがう薄く長いブラウスをルーズに羽織り、腰布は結ばず必ず左手で托していなければなりませんから 時々ウエストラインが見え隠れして男衆の視線を止めるほどに優雅でセクシイです。
男女の垣根の低い北のマナドからこの地を訪れて、デートなどと洒落れば、シリッの掟から刃物沙汰になるのは必定、交際には細心の留意が要るでしょう。

私たちは街から20 km 北のマロスにあるハサヌッデイン空港に降り立つのですが、東に向かう国営汽船PLNIは必ずここに寄港します。街の周辺には避暑地マリノやビリビリが、バンテムルン滝は数多くの蝶の宝庫ですし、旧港パオテレにはインドネシア周辺から多数の内航船を見ることが出来ます。沖にはラエラエ、カヤンガン、バラン、チャデイ、ランポ、クデインガラン珊瑚礁が散在し、美しい貝の収集家やダイバーの夢の竜宮城の景観です。
南に行けばタカラア、バンタエン、ジェネポント、ビラと生っ粋マカサルニーズの故郷で、帆船ピニシ造船も見ることが出来るでしょう。山には乗馬をよくする少数コンジョ族、海を隔ててサラヤール族が住みます。最南端を回りボネ湾を見ればそこはシンジャイ、ブギス族の領地でワタンボネ(ボネボネ)、シンカンへと続きます。ワタンソッペンからウジュンラムルウへ高原の冷気を縫って絹を織る機の音が聞こえるでしょう。
空港から北にとれば海老養殖池を左に見ながらパンカジェネ経由パレパレまで一直線、ここで右へトラジャの国への登りに入ります。左手深く行けば山へマジェネ、ママサまでで、その先は未知の森があるだけです。


トラジャの奇習
サダン川の源流高地に、近年その風葬の奇習で観光地化したトラジャが住んでいます。
小柄で低地種族とは明らかな違いがありますが勤勉聡明で、近年中央に進出しています。
イスラム化した海岸ブギス人に追われたと言われますが、先住人として歴史時代以前にミャンマーか雲南地方から来た人々ではないか、その黒衣裳、菅笠など酷似しています。
キンマで口を真っ赤にした農夫はやや異様ですが、百年に満たないキリスト布教が成功してザカリア、トマスなどの名前ですが、心は依然としてトラジャです。
高原に松や竹林が広がり、棚田での田植え歌は昔の日本を思い出させます。
葬儀は洗骨もあって数年に及び、彼等だけが知る日程で遥か彼方から大量の供物を持って弔問数千人が峠道を延々と数週間続きます。生け贄に捧げられる闘鶏、闘水牛(昔は人もあった)は圧巻で敗者が客人の胃袋を満たします。
夜を徹して詠われる男達の合唱は山々に木霊して荘厳の気が充満します。
きっといい地方歌を持っているのでしょう。
マカレの峠道、カロシ、コトウのアラビカコーヒーは世界一のアロマ。ロスメン(旅篭)
ワルン(茶店)では無造作にコップの粉に砂糖を入れて、客は受け皿から飲むだけですが、その風味は此処だけの逸品に違いありません。

1  ゴア王国の旧都スンバ・オプは市の中心カレボシ広場から8キロ南、ジェネベラン河口にあるが3つのモスクに囲まれて数個の石碑と石垣が残るだけで往時を偲ぶよすがはない。
2  アダット(慣習法)はイスラム律に強く支配されて種族の掟となる。家族の尊厳を最重視するから、自身への侮辱はもとより通姦や婚前交渉には死の代償がある。時代が変わっても伝統は強く残り、男女交際には一般論は通用しない。仇打ちが就成すると加害者は故郷での裁判を求める。
シリッが認められれば罪は軽くなるから。
3  ピニシは二本マストのガフリグ・スクーナ帆船で全長30m、100年以上、インドネシア内海航路を独占してきた。スラウエシ特産のパラピ、モリバウなど腐り難く弾力ある木材と古くからオーストラリア・アーネムランドまで海産物運搬の航海技術が結晶したものだろう。造船は通常とは異なり、先に外板を組み後から湾曲した自然木のフレームを挿入してゆく。舵や装帆に卓越した知恵が随所にみられる。半島南部のジェネポント、ビラの海浜で造られるが、完全な姿はピニシヌサンタラ(祖国号)と命名されて10000海里を航海してヴァンクーバー・カナダ万国博に参加したのが最後(1986年)で、現在は後部マストを外してエンジンを載せる姿に変わった。
ランボは小型で西洋風セールを持ち、パジェロはいまだに古代からの四角帆を変えず飛び魚漁に活躍 する。ピニシ型装帆はアジアにはなく、18世紀頃西洋から学びとったものだろう。
4 ダルルイスラムの流れをくむカハルムザッカルが1950年中央政府に敵対した内乱で、抗オランダゲリラが連邦共和国軍に統合される時、部下の処遇とかジャワ人支配に抵抗し南スラウエシの治安は長く混乱した。名誉、誇りを傷つけられると徹底して抵 抗する種族性を表している。首謀者は1965年銃殺された。


 
 
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