慢学インドネシア {旅物語・海物語}
 
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5 バリへの東航 3

ジャワの海
ひる少し前に遅刻した西風がゆっくり仕事を始めた。
頭のすぐ上のお陽さまに照らされた透明な風が、何処までそうなのかずうっと動くので、外にすることもなく、我々も一緒に動く。昔風に言うなら真ともに受けてとなるのだろうが、まともな考えが浮かぶような清涼な空気ではない。思索を練るには北国がいいから南国に哲学者はいない。
日陰を探してジブスロットの風下タックに寝そべって、灰色に輝くいるかの家族が観光に来ても昔のように、「いるかだ、いるかだあ」と騒ぎ立てる気力も失せた。
でかい眼でぎろりと見られると、どっちが観光しているのかわからなくなる。
しいらに追われた飛び魚が数尾セイルに当たってデッキに落ちる。
ソニが哀れな跳躍失敗者をバケツに収容する。缶詰もレトルトバウチ食品も要らない。食い物は先方から飛んでくるから哲学を考える事もない。
デッキの隅にムインの私物の椰子の実が数十個、青いバナナが三房積んである。彼が言うには貯めた水は腐るが椰子の実は命を救うとゆう。
南国の人々が椰子の木の恩恵を受けて暮らすのは、稲作文化の米以上に深い繋がりがあるのは驚異的で、衣食住すべてを依存している。我々には風景のアクセントくらいにしか感じない南の国の椰子、逆に申せばもし椰子がなければ、南国人は死滅するだろう。
命の確かな保証のその木の実は、ムインに言わせれば水分を補給し、白い果肉は完全栄養食で蛋白、澱粉、油脂、繊維、ビタミン要するに完全なのだとゆう。
燃料になり燃え滓は腐敗防止剤になり、一旦緩急があって沈没漂流となれば、その実は水に浮く水とゆうだけでなく、連結すれば波を静め、浮力体として人の命を救うと信じている。古代ポリネシア人の大航海も椰子の実があったればこそだ。

彼等の郷土食ゴゴスは当然彼のビニール袋に入っている。はじめて見た時、お節句の千巻きだと思った。バナナの葉で筒状に包まれたなかに餅米とおかか(鰹節)で味付けしてあって旅にでる時は必ず持ってゆく。
これが自慢じゃあしょうがないよ、と古い南スラウエシの友人が笑ったものだった。「ブギス・マカッサル人は戦いに明け暮れ、いつも臨戦態勢だったからこんな食料を発明したのさ。熱帯でもバナナの葉っぱに包んでおけば結構日持ちするものさ。イスラムを信奉したのも男が戦死して少ないから、四人妻の掟にうまく合致したんじゃない」
ムインはそのほかに新聞紙に包んだ海上食を暖めていて、時々ぼそりと齧りながら舵をとっている。
「なんだい、それは?」
「へえ、バジェで」「そういったって分らん」
「儂ら沖じゃあ、これを食ってるんで。こっちの言葉じゃあクタンですが、ソッコって餅とサンタン(椰子果肉)黒砂糖を練って固めます。ラブとかノジョの木の実を摺り込むと頭が冴えますです。これさえありゃあ」
彼はいつも離さない錆びたナイフで欠片を切って俺に差し出した。葡萄糖の塊みたいな甘く固い代物だった。
まずくはない。味からして滅法の高カロリイ食品なのが分る。これで万里の波涛を越えてゆくのか。
俺は近代都会人だ。少なくてもムインとか南洋土人より高級だから冷凍冷蔵庫、レトルトバウチの恩恵に浴そうとする。
トランスアトランテイックラリイで、俺みたいな近代人ヨットのフリーザーが故障して、食料全部が腐り、乗員六人餓死寸前で救助された事があった。
冷えたビールを飲まなくても、ムインのようにシャワーを浴びなくても死ぬことはない。フリーザーよりパジェを信じるのがよさそうだ。

インドラマユ辺りから水平線に雲が立つようになった。
うねりもではじめ、黒い簾が影を落とすようになれば、我々も神さまも忙しくなる。
真っ黒い雲ってあるものだ。ピユアブラック。風は東西南北と教わったが、ちがう。上下もあるのだ。「本日の天気カリムンジャワ沖では快晴、北西の風十米、上から。一時南東の風、下から。処により突風をともなう強いにわか雨」俺でも予報官になれる。
そうしてクルー共は濡れるからではなく、寒いからレインギアの襟を立てる。
海面を真っ黒に染めて、生き物のように意志を持った何かが、11時の方向から押し出してくるとそれが仕事始めになる。舞台の幔幕に包まれるように、そこはもう別世界がひろがる。
象の前足で踏んずけられるようなショックでラロは激しくヒールし切り上がる。
シートを出しミズンをフリーに。怠けていた罰でファーリング(自動縮帆機)がキンクしてジブが煽られる。頭を落とすから余計にヒールして、バウがスプレイをしゃくりあげ、最初の一撃がデッキを襲ってなだれ込む。
しぶきで濡れてももう影響はない。天でコックを捻った人がいて、スコールは風呂桶の底が抜けたように、ダムの放水のように落下して息もつけず眼も見えない。とても雨とは言い難い。
ブルーウオーターに叩かれると背筋の弱さが身にしみる。水塊に叩かれて前歯全部無くした友達がいた。
あんまり雨足が激しいからか、海面も叩かれ波がお辞儀するようだ。
バウが霞んで見えないなか、ソニが水中メガネをしてキンクと戦っているが無駄とゆうものだ。何がイージーセーリングだ。理屈としてはいいが一枚の帆を巻き取ったり伸ばしたり、そんなに上手く合わせる事などできやしない。
このような新型はそうなっては困る時にそうなる。
故障は回復の予測がつけられないから困る。舟が直立する程がぶられても、ストーム(強風帆)に代える時間の予測はたつ。シンプルイズベスト、もう二度と新製品カタログには騙されない。便利は不便になるのが沖の暮らしだ。
結局ジブを下ろしワンポンリーフしてラロは重心が下がり、まともなヨットになって8ノットはかたい。
二時間も格闘すれば、嘘でしょ、と言うように黒い塊は足早に通り過ぎ、天空にはいつもそこにある太陽が、狙いをつけるように熱線を照射してくるのが南海だ。
スコールが来はじめると、ある間隔をおいて次々とやってくる。
次の塊は14時の彼方でウオーミングアップして茶筒のように移動していたから、飛ばされたブロックを取り替えたり、ゾデイアック(ゴムボート)をラッシングしたり働くと、ムインの旦那はあの雲はこっちには来ないとつれない御宣託。逆らってみてもそうなるのだから癪にさわる。
俺は小便を漏らしたよな濡れたズボンを代えた。
バウウオーク、時化てきてデッキを移動する時、俺は落水を避ける為に重心を低く、時にはいざりのように尻を落として動くから、いつも尻が濡れてしまう。右手は自分の為に、左手は船の為に。必ずどこかに掴まって身体を保持するように努めている。教科書通りに。
俺のクルー共は少し違う。デッキでは殆ど腰掛けないでしゃがんでいる。猿山のお猿さんの格好を内心軽蔑していた。西洋人には出来ない姿勢だし。
だがこの姿勢が優劣を決める。がぶられていても彼等はどこにも掴まらず安定してしゃがんでいて、そのまま蟹のように素早く移動するのはまさに驚異だ。
椅子の生活を輸入してから俺達の堕落が始まったと言えないだろうか。
夕方、まだ溶けていないアイスボックスの隅からビールを一本、いや二本だし、とっておきのサラミを口に咥えてデッキにでると、どうしたことかムインがバウに立ち、ひどくおっかない顔をして時々腕をあげてラットを持つシロットに指示をだしている。
「カランガン暗礁なぞないぞ、この辺りにゃあ」
「マランド旋風のせいかアルス潮目が出来て、サンパごみが来ます。夜は動けなくなるかもしれません」
「ふーん」 俺に危機感はなかった。

ラロが少し頭を振ると、前方に一筋の潮目が遥か彼方まで続いて、浮遊物がそれに沿って浮いていた。海草、スチロールやプラステイック、海鳥が翼を休めている。
ムインが何か叫んでシロットがスロットルを戻す。ムインが海面を凝視しながら指で教える先に、黒い潜航艇のような陰が平行して去ってゆくところだった。
「ポホンクラパ ゲデ!椰子の大木」
未知の恐怖は後になって訪れる。それはビールをひと口飲んでから訪れた。
あれに衝突したらキールは吹っ飛んで三千万はお終いだ。撃沈されてしまう。
それから数回そんなでかい奴とすれ違ったが、肌を出して浮いているのは一本だけで、あとのは水の比重と同じらしく、水面下すれすれですぐには見えない。
ラロは逆らわないように潮目に沿って微速、一緒に漂いながら切り抜ける算段だ。
コンパスは大きく振れて20°N、
「回り道ですが、奴等と喧嘩しちゃあいけません。しばらくこうすれば、スギ直角で当たるこたあないっス。ラロはバリンバリンスクリューがあるし、クムデイ(舵)もあるから生きた心地もしません。わしらの船にゃあ底にはなにもありません。いるかのようにね」
「どこから来て集まるのかなあ」
「カリマンタンか、川が山を崩して海に投げ込むわけでサ。上流の森を開墾する頃からバンジール(洪水)もふえて、水牛や人間様だって。なんで女は決まって空を見てますけど。トアンはわけを知っていますか」
「男はバリンがあるからじゃないかな」

 
 
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