
7 バリへの東航 5
イーストオブバリ
豊旗雲が西の空にたなびき、今日の勤めを終えた太陽が海を朱に染めて沈んでゆく。放射となった光芒が、海面に金のヴエールとなって射込む。四囲は紫紺に変わるすべての色彩を描きながら夕暮れの儀式を演出する。
万古の昔から一度たりとも変わらないこの時が信じられない。
三千年前カヌーに乗って東の島を目指したマウイ人も、ジャワを追われたモジョパヒトのお姫様も、ポルトギスの荒くれクリッパーも、あした沈む運命の帝国海軍巡洋艦も、そしてムインも俺も、今同じ時を持っているのだと思うと、時間とはいったい何なのかと素朴な疑問が湧いてくる。
ラロはウエザーサイドでジブを細かくシバさせながら風を孕み、大気に調和して一体となったように、なりたい意志があるように黄金色の波頭を分けて進む。エンジン付きではこうは行かないのも不思議なことだ。
茜色の落日を四人は無言で眺めやる。明らかに俺の生まれ育った処より、今めくるめくも偉大なる神の座に近い。
フネで遊ぶまで、俺とてそんなことなど考えもしないでネオンの街を儲けの為にせわしなく歩いていた。地球は確かに丸いと確信する事も必要もなかった。その仲間に言わせれば一銭にもならない無駄な事と蔑むだろう。ビジネスの世界から遊離して利を忘れれば奇人となり、抹殺されるだろう。ぼろを着ても心は錦が通用しない世の中になった。
損も得も無い世界はあるのだろうか。影響力を少なくして粋の世界に住みたい。
数寄の心を探したい。
隙があったのだ。マドウラ沖 16,00
「マドウラは何もない処です」 けっこう大きな平らな島影をスタボーに見ながら、ムインは流行歌の襟裳岬のように言った。
「暑いだけです。男は焼き鳥屋かリンタクの出稼ぎか一生闘牛を飼って終わります」
「カラパンサピ牛競争はいいそうだ」
「いいのは女っていいます」
ムインの言い方は鉄よりステンレスがいい、といった感じで咄嗟に何がいいのかわからなかった。
「子供の頃から特別のジャムウ(地薬)を飲みますし、専門の学校もあるそうで」
スペシャルとゆう英語まで挿入して、
「締まるとゆうか、蠢くとゆうか、そこだけが別の生き物だっていいますで」
「シャコ貝みたいだ」
「やあ、トアン、食いちぎられます。ほどほどでなくちゃあね」 で笑った。
暮れる前に燃料補給しておきます、生物学はちょんとなり、ムインはデッキに縛り付けた石油缶を抱えあげた。
凪いでいたのに滑って転倒し、動かなくなり、油が彼を濡らした。
彼は腰骨をセルフタッキングレイルにしたたか打って起き上がれない。
「だから靴を履けと言っていただろう。裸足は滑るんだ」
「真っ直ぐに寝ている事だ。起きたら治るもんも治らない」
この事故からシロットが生き返ったように働くが、僅かな不注意はショートハンドにとっては致命傷になる。これがシングルハンドなら飯も食えないしシートも操れない。
コルバン海賊騒ぎより流木騒ぎに時間をとられたから、マドウラの東の鼻で転進してサブジ海峡通過は夜になる。
灯台ひとつない真の闇で、夜空の星が降るようでも針路の救けにはならない。それが別にどうとゆうわけでもないが、やはりムインが重しになってフォクスルで寝ていると、やや緊張の度が強まる。
「ソニ、寝ておけ、シロッ、きをつけえ!シアップラァ!」
俺は冷や飯に山羊肉スウプをぶっかけて腹ごしらえしてバンダナ鉢巻きを締め直す。
「トアン、サブチはイアング島を通ってからで、マドウラに沿ってではないス」
「分ってるムイン、チャートでもそうだ!」痛くて蚊の泣くような声に答える。
なにか静まり返ったデッキ、マストトップのウインドインジケーターライトが、この世のものとも思えない幻想的な美しさで輝く。
ローリングする度に天空が、星座が大きく揺れる。
今夜は月も沈んで漁り火もなく、闇一色。オートにしてワッチすると、誰かがすぐ後ろにいるような気がして何度も振り向いてしまう。
俺は船への適性に欠けている。なにしろ眠るのが大好きだし、無類の楽天家だ。状況を良い方にしか考えない猪突型だ。遠目も効かないし、それによく喉が乾くしシャワー大好き人間。一日4リッターがオフショアセイラーの給水量とゆうなら完全に落第だ。生まれが漁師町なんて何の役にもたたない。
トアン代わりましょう、と言われれば、あ、そう、とすぐ交代してしまう。
まだ三時間もしないうちにもうバースに潜り込むとは。
気が付くともう夜明けで、ムインはドグハウスに腹ばいになって針路を確かめていた。
「この空で昼頃メラピ山が見えたら、うまくいって今夜、錨をいれられるでしょう」
ジャワ海に別れを告げる頃には風はバラタンから南にシフトして、厳しい向かいのクローズホールドが続く。汐も思いのほか強くラロの南進を阻んだ。
ルアにしいらが三尾程かかり、またしいらのバタ焼きで、豊漁もよし悪しだ。
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